15 椎本・総角
椎本
第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る
[第一段 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る]
如月の二十日のほどに、兵部卿宮、初瀬に詣でたまふ。古き御願なりけれど、思しも立たで年ごろになりにけるを、宇治のわたりの御中宿りのゆかしさに、多くは催されたまへるなるべし。うらめしと言ふ人もありける里の名の、なべて睦ましう思さるるゆゑもはかなしや。上達部いとあまた仕うまつりたまふ。殿上人などはさらにもいはず、世に残る人少なう仕うまつれり。
六条院より伝はりて、右大殿知りたまふ所は、川より遠方に、いと広くおもしろくてあるに、御まうけせさせたまへり。大臣も、帰さの御迎へに参りたまふべく思したるを、にはかなる御物忌みの、重く慎みたまふべく申したなれば、え参らぬ由のかしこまり申したまへり。
宮、なますさまじと思したるに、宰相中将、今日の御迎へに参りあひたまへるに、なかなか心やすくて、かのわたりのけしきも伝へ寄らむと、御心ゆきぬ。大臣をば、うちとけて見えにくく、ことことしきものに思ひきこえたまへり。
御子の君たち、右大弁、侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐など、さぶらひたまふ。帝、后も心ことに思ひきこえたまへる宮なれば、おほかたの御おぼえもいと限りなく、まいて六条院の御方ざまは、次々の人も、皆私の君に、心寄せ仕うまつりたまふ。
[第二段 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す]
所につけて、御しつらひなどをかしうしなして、碁、双六、弾棊の盤どもなど取り出でて、心々にすさび暮らしたまふ。宮は、ならひたまはぬ御ありきに、悩ましく思されて、ここにやすらはむの御心も深ければ、うち休みたまひて、夕つ方ぞ、御琴など召して遊びたまふ。
例の、かう世離れたる所は、水の音ももてはやして、物の音澄みまさる心地して、かの聖の宮にも、たださし渡るほどなれば、追風に吹き来る響きを聞きたまふに、昔のこと思し出でられて、
「笛をいとをかしうも吹きとほしたなるかな。誰ならむ。昔の六条院の御笛の音聞きしは、いとをかしげに愛敬づきたる音にこそ吹きたまひしか。これは澄みのぼりて、ことことしき気の添ひたるは、致仕大臣の御族の笛の音にこそ似たなれ」など、独りごちおはす。
「あはれに、久しうなりにけりや。かやうの遊びなどもせで、あるにもあらで過ぐし来にける年月の、さすがに多く数へらるるこそ、かひなけれ」
などのたまふついでにも、姫君たちの御ありさまあたらしく、「かかる山懐にひき籠めてはやまずもがな」と思し続けらる。「宰相の君の、同じうは近きゆかりにて見まほしげなるを、さしも思ひ寄るまじかめり。まいて今やうの心浅からむ人をば、いかでかは」など思し乱れ、つれづれと眺めたまふ所は、春の夜もいと明かしがたきを、心やりたまへる旅寝の宿りは、酔の紛れにいと疾う明けぬる心地して、飽かず帰らむことを、宮は思す。
はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむるなど、いろいろ見わたさるるに、川沿ひ柳の起きふしなびく水影など、おろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、いとめづらしく見捨てがたしと思さる。
宰相は、「かかるたよりを過ぐさず、かの宮にまうでばや」と思せど、「あまたの人目をよきて、一人漕ぎ出でたまはむ舟わたりのほども軽らかにや」と思ひやすらひたまふほどに、かれより御文あり。
「山風に霞吹きとく声はあれど
隔てて見ゆる遠方の白波」
草にいとをかしう書きたまへり。宮、「思すあたりの」と見たまへば、いとをかしう思いて、「この御返りはわれせむ」とて、
「遠方こちの汀に波は隔つとも
なほ吹きかよへ宇治の川風」
[第三段 薫、迎えに八の宮邸に来る]
中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて、さしやりたまふほど、酣酔楽遊びて、水に臨きたる廊に造りおろしたる階の心ばへなど、さる方にいとをかしう、ゆゑある宮なれば、人びと心して舟よりおりたまふ。
ここはまた、さま異に、山里びたる網代屏風などの、ことさらにことそぎて、見所ある御しつらひを、さる心してかき払ひ、いといたうしなしたまへり。いにしへの、音などいと二なき弾きものどもを、わざとまうけたるやうにはあらで、次々弾き出でたまひて、壱越調の心に、桜人遊びたまふ。
主人の宮、御琴をかかるついでにと、人びと思ひたまへれど、箏の琴をぞ、心にも入れず、折々掻き合はせたまふ。耳馴れぬけにやあらむ、「いともの深くおもしろし」と、若き人びと思ひしみたり。
所につけたる饗応、いとをかしうしたまひて、よそに思ひやりしほどよりは、なま孫王めくいやしからぬ人あまた、大君、四位の古めきたるなど、かく人目見るべき折と、かねていとほしがりきこえけるにや、さるべき限り参りあひて、瓶子取る人もきたなげならず、さる方に古めきて、よしよししうもてなしたまへり。客人たちは、御女たちの住まひたまふらむ御ありさま、思ひやりつつ、心つく人もあるべし。
[第四段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す]
かの宮は、まいてかやすきほどならぬ御身をさへ、所狭く思さるるを、かかる折にだにと、忍びかねたまひて、おもしろき花の枝を折らせたまひて、御供にさぶらふ上童のをかしきしてたてまつりたまふ。
「山桜匂ふあたりに尋ね来て
同じかざしを折りてけるかな
野を睦ましみ」
とやありけむ。「御返りは、いかでかは」など、聞こえにくく思しわづらふ。
「かかる折のこと、わざとがましくもてなし、ほどの経るも、なかなか憎きことになむしはべりし」
など、古人ども聞こゆれば、中の君にぞ書かせたてまつりたまふ。
「かざし折る花のたよりに山賤の
垣根を過ぎぬ春の旅人
野をわきてしも」
と、いとをかしげに、らうらうじく書きたまへり。
げに、川風も心わかぬさまに吹き通ふ物の音ども、おもしろく遊びたまふ。御迎へに、藤大納言、仰せ言にて参りたまへり。人びとあまた参り集ひ、もの騒がしくてきほひ帰りたまふ。若き人びと、飽かず返り見のみせられける。宮は、「またさるべきついでして」と思す。
花盛りにて、四方の霞も眺めやるほどの見所あるに、唐のも大和のも、歌ども多かれど、うるさくて尋ねも聞かぬなり。
もの騒がしくて、思ふままにもえ言ひやらずなりにしを、飽かず宮は思して、しるべなくても御文は常にありけり。宮も、
「なほ、聞こえたまへ。わざと懸想だちてももてなさじ。なかなか心ときめきにもなりぬべし。いと好きたまへる親王なれば、かかる人なむ、と聞きたまふが、なほもあらぬすさびなめり」
と、そそのかしたまふ時々、中の君ぞ聞こえたまふ。姫君は、かやうのこと、戯れにももて離れたまへる御心深さなり。
いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど暮らしがたく眺めたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌ども、いよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦しく、「かたほにもおはせましかば、あたらしう、惜しき方の思ひは薄くやあらまし」など、明け暮れ思し乱る。
姉君二十五、中の君二十三にぞなりたまひける。
[第五段 八の宮、娘たちへの心配]
宮は、重く慎みたまふべき年なりけり。もの心細く思して、御行ひ常よりもたゆみなくしたまふ。世に心とどめたまはねば、出で立ちいそぎをのみ思せば、涼しき道にも赴きたまひぬべきを、ただこの御ことどもに、いといとほしく、限りなき御心強さなれど、「かならず、今はと見捨てたまはむ御心は、乱れなむ」と、見たてまつる人も推し量りきこゆるを、思すさまにはあらずとも、なのめに、さても人聞き口惜しかるまじう、見ゆるされぬべき際の人の、真心に後見きこえむ、など、思ひ寄りきこゆるあらば、知らず顔にてゆるしてむ、一所一所世に住みつきたまふよすがあらば、それを見譲る方に慰めおくべきを、さまで深き心に尋ねきこゆる人もなし。
まれまれはかなきたよりに、好きごと聞こえなどする人は、まだ若々しき人の心のすさびに、物詣での中宿り、行き来のほどのなほざりごとに、けしきばみかけて、さすがに、かく眺めたまふありさまなど推し量り、あなづらはしげにもてなすは、めざましうて、なげのいらへをだにせさせたまはず。三の宮ぞ、なほ見ではやまじと思す御心深かりける。さるべきにやおはしけむ。
第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す
[第一段 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問]
宰相中将、その秋、中納言になりたまひぬ。いとど匂ひまさりたまふ。世のいとなみに添へても、思すこと多かり。いかなることと、いぶせく思ひわたりし年ごろよりも、心苦しうて過ぎたまひにけむいにしへざまの思ひやらるるに、罪軽くなりたまふばかり、行ひもせまほしくなむ。かの老い人をばあはれなるものに思ひおきて、いちじるきさまならず、とかく紛らはしつつ、心寄せ訪らひたまふ。
宇治に参うでで久しうなりにけるを、思ひ出でて参りたまへり。七月ばかりになりにけり。都にはまだ入りたたぬ秋のけしきを、音羽の山近く、風の音もいと冷やかに、槙の山辺もわづかに色づきて、なほ尋ね来たるに、をかしうめづらしうおぼゆるを、宮はまいて、例よりも待ち喜びきこえたまひて、このたびは、心細げなる物語、いと多く申したまふ。
「亡からむ後、この君たちを、さるべきもののたよりにもとぶらひ、思ひ捨てぬものに数まへたまへ」
など、おもむけつつ聞こえたまへば、
「一言にても承りおきてしかば、さらに思うたまへおこたるまじくなむ。世の中に心をとどめじと、はぶきはべる身にて、何ごとも頼もしげなき生ひ先の少なさになむはべれど、さる方にてもめぐらいはべらむ限りは、変らぬ心ざしを御覧じ知らせむとなむ思うたまふる」
など聞こえたまへば、うれしと思いたり。
[第二段 薫、八の宮と昔語りをする]
夜深き月の明らかにさし出でて、山の端近き心地するに、念誦いとあはれにしたまひて、昔物語したまふ。
「このころの世は、いかがなりにたらむ。宮中などにて、かやうなる秋の月に、御前の御遊びの折にさぶらひあひたる中に、ものの上手とおぼしき限り、とりどりにうち合はせたる拍子など、ことことしきよりも、よしありとおぼえある女御、更衣の御局々の、おのがじしは挑ましく思ひ、うはべの情けを交はすべかめるに、夜深きほどの人の気しめりぬるに、心やましく掻い調べ、ほのかにほころび出でたる物の音など、聞き所あるが多かりしかな。
何ごとにも、女は、もてあそびのつまにしつべく、ものはかなきものから、人の心を動かすくさはひになむあるべき。されば、罪の深きにやあらむ。子の道の闇を思ひやるにも、男は、いとしも親の心を乱さずやあらむ。女は、限りありて、いふかひなき方に思ひ捨つべきにも、なほ、いと心苦しかるべき」
など、おほかたのことにつけてのたまへる、いかがさ思さざらむ、心苦しく思ひやらるる御心のうちなり。
「すべて、まことに、しか思うたまへ捨てたるけにやはべらむ、みづからのことにては、いかにもいかにも深う思ひ知る方のはべらぬを、げにはかなきことなれど、声にめづる心こそ、背きがたきことにはべりけれ。さかしう聖だつ迦葉も、さればや、立ちて舞ひはべりけむ」
など聞こえて、飽かず一声聞きし御琴の音を、切にゆかしがりたまへば、うとうとしからぬ初めにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたまひて、切にそそのかしきこえたまふ。箏の琴をぞ、いとほのかに掻きならしてやみたまひぬる。いとど人のけはひも絶えて、あはれなる空のけしき、所のさまに、わざとなき御遊びの心に入りてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾き合はせたまはむ。
「おのづからかばかりならしそめつる残りは、世籠もれるどちに譲りきこえてむ」
とて、宮は仏の御前に入りたまひぬ。
「われなくて草の庵は荒れぬとも
このひとことはかれじとぞ思ふ
かかる対面もこのたびや限りならむと、もの心細きに忍びかねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」
とて、うち泣きたまふ。客人、
「いかならむ世にかかれせむ長き世の
契りむすべる草の庵は
相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎて、さぶらはむ」
など聞こえたまふ。
[第三段 薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京]
こなたにて、かの問はず語りの古人召し出でて、残り多かる物語などせさせたまふ。入り方の月、隈なくさし入りて、透影なまめかしきに、君たちも奥まりておはす。世の常の懸想びてはあらず、心深う物語のどやかに聞こえつつものしたまへば、さるべき御いらへなど聞こえたまふ。
「三の宮、いとゆかしう思いたるものを」と、心のうちには思ひ出でつつ、「わが心ながら、なほ人には異なりかし。さばかり御心もて許いたまふことの、さしもいそがれぬよ。もて離れて、はたあるまじきこととは、さすがにおぼえず。かやうにてものをも聞こえ交はし、折ふしの花紅葉につけて、あはれをも情けをも通はすに、憎からずものしたまふあたりなれば、宿世異にて、他ざまにもなりたまはむは」、さすがに口惜しかるべう、領じたる心地しけり。
まだ夜深きほどに帰りたまひぬ。心細く残りなげに思いたりし御けしきを、思ひ出できこえたまひつつ、「騒がしきほど過ぐして参うでむ」と思す。兵部卿宮も、この秋のほどに紅葉見におはしまさむと、さるべきついでを思しめぐらす。
御文は、絶えずたてまつりたまふ。女は、まめやかに思すらむとも思ひたまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてなしつつ、折々に聞こえ交はしたまふ。
[第四段 八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る]
秋深くなりゆくままに、宮は、いみじうもの心細くおぼえたまひければ、「例の、静かなる所にて、念仏をも紛れなうせむ」と思して、君たちにもさるべきこと聞こえたまふ。
「世のこととして、つひの別れを逃れぬわざなめれど、思ひ慰まむ方ありてこそ、悲しさをも覚ますものなめれ。また見譲る人もなく、心細げなる御ありさまどもを、うち捨ててむがいみじきこと。
されども、さばかりのことに妨げられて、長き夜の闇にさへ惑はむが益なさを。かつ見たてまつるほどだに思ひ捨つる世を、去りなむうしろのこと、知るべきことにはあらねど、わが身一つにあらず、過ぎたまひにし御面伏せに、軽々しき心どもつかひたまふな。
おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り異なる身と思しなして、ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひなせば、ことにもあらず過ぎぬる年月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠もりて、いちしるくいとほしげなる、よそのもどきを負はざらむなむよかるべき」
などのたまふ。ともかくも身のならむやうまでは、思しも流されず、ただ、「いかにしてか、後れたてまつりては、世に片時もながらふべき」と思すに、かく心細きさまの御あらましごとに、言ふ方なき御心惑ひどもになむ。心のうちにこそ思ひ捨てたまひつらめど、明け暮れ御かたはらにならはいたまうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げに恨めしかるべき御ありさまになむありける。
明日、入りたまはむとての日は、例ならず、こなたかなた、たたずみ歩きたまひて見たまふ。いとものはかなく、かりそめの宿りにて過ぐいたまひける御住まひのありさまを、「亡からむのち、いかにしてかは、若き人の絶え籠もりては過ぐいたまはむ」と、涙ぐみつつ念誦したまふさま、いときよげなり。
おとなびたる人びと召し出でて、
「うしろやすく仕うまつれ。何ごとも、もとよりかやすく、世に聞こえあるまじき際の人は、末の衰へも常のことにて、紛れぬべかめり。かかる際になりぬれば、人は何と思はざらめど、口惜しうてさすらへむ、契りかたじけなく、いとほしきことなむ、多かるべき。もの寂しく心細き世を経るは、例のことなり。
生まれたる家のほど、おきてのままにもてなしたらむなむ、聞き耳にも、わが心地にも、過ちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数めかむと思ふとも、その心にもかなふまじき世とならば、ゆめゆめ軽々しく、よからぬ方にもてなしきこゆな」
などのたまふ。
まだ暁に出でたまふとても、こなたに渡りたまひて、
「無からむほど、心細くな思しわびそ。心ばかりはやりて遊びなどはしたまへ。何ごとも思ふにえかなふまじき世を。思し入られそ」
など、返り見がちにて出でたまひぬ。二所、いとど心細くもの思ひ続けられて、起き臥しうち語らひつつ、
「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさまし」
「今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあらば」
など、泣きみ笑ひみ、戯れごともまめごとも、同じ心に慰め交して過ぐしたまふ。
[第五段 八月二十日、八の宮、山寺で死去]
かの行ひたまふ三昧、今日果てぬらむと、いつしかと待ちきこえたまふ夕暮に、人参りて、
「今朝より、悩ましくてなむ、え参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。さるは、例よりも対面心もとなきを」
と聞こえたまへり。胸つぶれて、いかなるにかと思し嘆き、御衣ども綿厚くて、急ぎせさせたまひて、たてまつれなどしたまふ。二、三日怠りたまはず。「いかに、いかに」と、人たてまつりたまへど、
「ことにおどろおどろしくはあらず。そこはかとなく苦しうなむ。すこしもよろしくならば、今、念じて」
など、言葉にて聞こえたまふ。阿闍梨つとさぶらひて仕うまつりける。
「はかなき御悩みと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらむ。君たちの御こと、何か思し嘆くべき。人は皆、御宿世といふもの異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」
と、いよいよ思し離るべきことを聞こえ知らせつつ、「今さらにな出でたまひそ」と、諌め申すなりけり。
八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけしきもいとどしきころ、君たちは、朝夕、霧の晴るる間もなく、思し嘆きつつ眺めたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀上げさせて、見出だしたまへるに、鐘の声かすかに響きて、「明けぬなり」と聞こゆるほどに、人びと来て、
「この夜中ばかりになむ、亡せたまひぬる」
と泣く泣く申す。心にかけて、いかにとは絶えず思ひきこえたまへれど、うち聞きたまふには、あさましくものおぼえぬ心地して、いとどかかることには、涙もいづちか去にけむ、ただうつぶし臥したまへり。
いみじき目も、見る目の前にておぼつかなからぬこそ、常のことなれ、おぼつかなさ添ひて、思し嘆くこと、ことわりなり。しばしにても、後れたてまつりて、世にあるべきものと思しならはぬ御心地どもにて、いかでかは後れじと泣き沈みたまへど、限りある道なりければ、何のかひなし。
[第六段 阿闍梨による法事と薫の弔問]
阿闍梨、年ごろ契りおきたまひけるままに、後の御こともよろづに仕うまつる。
「亡き人になりたまへらむ御さま容貌をだに、今一度見たてまつらむ」
と思しのたまへど、
「今さらに、なでふさることかはべるべき。日ごろも、また会ひたまふまじきことを聞こえ知らせつれば、今はまして、かたみに御心とどめたまふまじき御心遣ひを、ならひたまふべきなり」
とのみ聞こゆ。おはしましける御ありさまを聞きたまふにも、阿闍梨のあまりさかしき聖心を、憎くつらしとなむ思しける。
入道の御本意は、昔より深くおはせしかど、かう見譲る人なき御ことどもの見捨てがたきを、生ける限りは明け暮れえ避らず見たてまつるを、よに心細き世の慰めにも、思し離れがたくて過ぐいたまへるを、限りある道には、先だちたまふも慕ひたまふ御心も、かなはぬわざなりけり。
中納言殿には、聞きたまひて、いとあへなく口惜しく、今一度、心のどかにて聞こゆべかりけること多う残りたる心地して、おほかた世のありさま思ひ続けられて、いみじう泣いたまふ。「またあひ見ること難くや」などのたまひしを、なほ常の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを、人よりけに思ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日と思はざりけるを、かへすがへす飽かず悲しく思さる。
阿闍梨のもとにも、君たちの御弔らひも、こまやかに聞こえたまふ。かかる御弔らひなど、また訪れきこゆる人だになき御ありさまなるは、ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれなめりしなどをも、思ひ知りたまふ。
「世の常のほどの別れだに、さしあたりては、またたぐひなきやうにのみ、皆人の思ひ惑ふものなめるを、慰むかたなげなる御身どもにて、いかやうなる心地どもしたまふらむ」と思しやりつつ、後の御わざなど、あるべきことども、推し量りて、阿闍梨にも訪らひたまふ。ここにも、老い人どもにことよせて、御誦経などのことも思ひやりたまふ。
第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち
[第一段 九月、忌中の姫君たち]
明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝も、一つもののやうに暮れ惑ひて、「かうては、いかでか、限りあらむ御命も、しばしめぐらいたまはむ」と、さぶらふ人びとは、心細く、いみじく慰めきこえつつ。
ここにも念仏の僧さぶらひて、おはしましし方は、仏を形見に見たてまつりつつ、時々参り仕うまつりし人びとの、御忌に籠もりたる限りは、あはれに行ひて過ぐす。
兵部卿宮よりも、たびたび弔らひきこえたまふ。さやうの御返りなど、聞こえむ心地もしたまはず。おぼつかなければ、「中納言にはかうもあらざなるを、我をばなほ思ひ放ちたまへるなめり」と、恨めしく思す。紅葉の盛りに、文など作らせたまはむとて、出で立ちたまひしを、かく、このわたりの御逍遥、便なきころなれば、思しとまりて口惜しくなむ。
[第二段 匂宮からの弔問の手紙]
御忌も果てぬ。限りあれば、涙も隙もやと思しやりて、いと多く書き続けたまへり。時雨がちなる夕つ方、
「牡鹿鳴く秋の山里いかならむ
小萩が露のかかる夕暮
ただ今の空のけしき、思し知らぬ顔ならむも、あまり心づきなくこそあるべけれ。枯れゆく野辺も、分きて眺めらるるころになむ」
などあり。
「げに、いとあまり思ひ知らぬやうにて、たびたびになりぬるを、なほ、聞こえたまへ」
など、中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてまつりたまふ。
「今日までながらへて、硯など近くひき寄せて見るべきものとやは思ひし。心憂くも過ぎにける日数かな」と思すに、またかきくもり、もの見えぬ心地したまへば、押しやりて、
「なほ、えこそ書きはべるまじけれ。やうやうかう起きゐられなどしはべるが、げに、限りありけるにこそとおぼゆるも、疎ましう心憂くて」
と、らうたげなるさまに泣きしをれておはするも、いと心苦し。
夕暮のほどより来ける御使、宵すこし過ぎてぞ来たる。「いかでか、帰り参らむ。今宵は旅寝して」と言はせたまへど、「立ち帰りこそ、参りなめ」と急げば、いとほしうて、我さかしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて、
「涙のみ霧りふたがれる山里は
籬に鹿ぞ諸声に鳴く」
黒き紙に、夜の墨つきもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、筆にまかせて、おし包みて出だしたまひつ。
[第三段 匂宮の使者、帰邸]
御使は、木幡の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど、さやうのもの懼ぢすまじきをや選り出でたまひけむ、むつかしげなる笹の隈を、駒ひきとどむるほどもなくうち早めて、片時に参り着きぬ。御前にても、いたく濡れて参りたれば、禄賜ふ。
さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、今すこしおとなびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、「いづれか、いづれならむ」と、うちも置かず御覧じつつ、とみにも大殿籠もらねば、
「待つとて、起きおはしまし」
「また御覧ずるほどの久しきは、いかばかり御心にしむことならむ」
と、御前なる人びと、ささめき聞こえて、憎みきこゆ。ねぶたければなめり。
まだ朝霧深き朝に、いそぎ起きてたてまつりたまふ。
「朝霧に友まどはせる鹿の音を
おほかたにやはあはれとも聞く
諸声は劣るまじくこそ」
とあれど、「あまり情けだたむもうるさし。一所の御蔭に隠ろへたるを頼み所にてこそ、何ごとも心やすくて過ごしつれ。心よりほかにながらへて、思はずなることの紛れ、つゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思しおくめりしなき御魂にさへ、疵やつけたてまつらむ」と、なべていとつつましう恐ろしうて、聞こえたまはず。
この宮などを、軽らかにおしなべてのさまにも思ひきこえたまはず。なげの走り書いたまへる御筆づかひ言の葉も、をかしきさまになまめきたまへる御けはひを、あまたは見知りたまはねど、見たまひながら、「そのゆゑゆゑしく情けある方に、言をまぜきこえむも、つきなき身のありさまどもなれば、何か、ただ、かかる山伏だちて過ぐしてむ」と思す。
[第四段 薫、宇治を訪問]
中納言殿の御返りばかりは、かれよりもまめやかなるさまに聞こえたまへば、これよりも、いとけうとげにはあらず聞こえ通ひたまふ。御忌果てても、みづから参うでたまへり。東の廂の下りたる方にやつれておはするに、近う立ち寄りたまひて、古人召し出でたり。
闇に惑ひたまへる御あたりに、いとまばゆく匂ひ満ちて入りおはしたれば、かたはらいたうて、御いらへなどをだにえしたまはねば、
「かやうには、もてないたまはで、昔の御心むけに従ひきこえたまはむさまならむこそ、聞こえ承るかひあるべけれ。なよびけしきばみたる振る舞ひをならひはべらねば、人伝てに聞こえはべるは、言の葉も続きはべらず」
とあれば、
「あさましう、今までながらへはべるやうなれど、思ひさまさむ方なき夢にたどられはべりてなむ、心よりほかに空の光見はべらむもつつましうて、端近うもえみじろきはべらぬ」
と聞こえたまへれば、
「ことといへば、限りなき御心の深さになむ。月日の影は、御心もて晴れ晴れしくもて出でさせたまはばこそ、罪もはべらめ。行く方もなく、いぶせうおぼえはべり。また思さるらむは、しばしをも、あきらめきこえまほしくなむ」
と申したまへば、
「げに、こそ。いとたぐひなげなめる御ありさまを、慰めきこえたまふ御心ばへの浅からぬほど」など、聞こえ知らす。
[第五段 薫、大君と和歌を詠み交す]
御心地にも、さこそいへ、やうやう心しづまりて、よろづ思ひ知られたまへば、昔ざまにても、かうまではるけき野辺を分け入りたまへる心ざしなども、思ひ知りたまふべし、すこしゐざり寄りたまへり。
思すらむさま、またのたまひ契りしことなど、いとこまやかになつかしう言ひて、うたて雄々しきけはひなどは見えたまはぬ人なれば、け疎くすずろはしくなどはあらねど、知らぬ人にかく声を聞かせたてまつり、すずろに頼み顔なることなどもありつる日ごろを思ひ続くるも、さすがに苦しうて、つつましけれど、ほのかに一言などいらへきこえたまふさまの、げに、よろづ思ひほれたまへるけはひなれば、いとあはれと聞きたてまつりたまふ。
黒き几帳の透影の、いと心苦しげなるに、ましておはすらむさま、ほの見し明けぐれなど思ひ出でられて、
「色変はる浅茅を見ても墨染に
やつるる袖を思ひこそやれ」
と、独り言のやうにのたまへば、
「色変はる袖をば露の宿りにて
わが身ぞさらに置き所なき
はつるる糸は」
と末は言ひ消ちて、いといみじく忍びがたきけはひにて入りたまひぬなり。
[第六段 薫、弁の君と語る]
ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、飽かずあはれにおぼゆ。老い人ぞ、こよなき御代はりに出で来て、昔今をかき集め、悲しき御物語ども聞こゆ。ありがたくあさましきことどもをも見たる人なりければ、かうあやしく衰へたる人とも思し捨てられず、いとなつかしう語らひたまふ。
「いはけなかりしほどに、故院に後れたてまつりて、いみじう悲しきものは世なりけりと、思ひ知りにしかば、人となりゆく齢に添へて、官位、世の中の匂ひも、何ともおぼえずなむ。
ただ、かう静やかなる御住まひなどの、心にかなひたまへりしを、かくはかなく見なしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめの世の思ひ知らるる心も、もよほされにたれど、心苦しうて、とまりたまへる御ことどもの、ほだしなど聞こえむは、かけかけしきやうなれど、ながらへても、かの御言あやまたず、聞こえ承らまほしさになむ。
さるは、おぼえなき御古物語聞きしより、いとど世の中に跡とめむともおぼえずなりにたりや」
うち泣きつつのたまへば、この人はましていみじく泣きて、えも聞こえやらず。御けはひなどの、ただそれかとおぼえたまふに、年ごろうち忘れたりつるいにしへの御ことをさへとり重ねて、聞こえやらむ方もなく、おぼほれゐたり。
この人は、かの大納言の御乳母子にて、父は、この姫君たちの母北の方の、母方の叔父、左中弁にて亡せにけるが子なりけり。年ごろ、遠き国にあくがれ、母君も亡せたまひてのち、かの殿には疎くなり、この宮には、尋ね取りてあらせたまふなりけり。人もいとやむごとなからず、宮仕へ馴れにたれど、心地なからぬものに宮も思して、姫君たちの御後見だつ人になしたまへるなりけり。
昔の御ことは、年ごろかく朝夕に見たてまつり馴れ、心隔つる隈なく思ひきこゆる君たちにも、一言うち出で聞こゆるついでなく、忍びこめたりけれど、中納言の君は、「古人の問はず語り、皆、例のことなれば、おしなべてあはあはしうなどは言ひ広げずとも、いと恥づかしげなめる御心どもには、聞きおきたまへらむかし」と推し量らるるが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、「またもて離れてはやまじ」と、思ひ寄らるるつまにもなりぬべき。
[第七段 薫、日暮れて帰京]
今は旅寝もすずろなる心地して、帰りたまふにも、「これや限りの」などのたまひしを、「などか、さしもやは、とうち頼みて、また見たてまつらずなりにけむ、秋やは変はれる。あまたの日数も隔てぬほどに、おはしにけむ方も知らず、あへなきわざなりや。ことに例の人めいたる御しつらひなく、いとことそぎたまふめりしかど、いとものきよげにかき払ひ、あたりをかしくもてないたまへりし御住まひも、大徳たち出で入り、こなたかなたひき隔てつつ、御念誦の具どもなどぞ、変らぬさまなれど、『仏は皆かの寺に移したてまつりてむとす』」と聞こゆるを、聞きたまふにも、かかるさまの人影などさへ絶え果てむほど、とまりて思ひたまはむ心地どもを汲みきこえたまふも、いと胸いたう思し続けらる。
「いたく暮れはべりぬ」と申せば、眺めさして立ちたまふに、雁鳴きて渡る。
「秋霧の晴れぬ雲居にいとどしく
この世をかりと言ひ知らすらむ」
[第八段 姫君たちの傷心]
兵部卿宮に対面したまふ時は、まづこの君たちの御ことを扱ひぐさにしたまふ。「今はさりとも心やすきを」と思して、宮は、ねむごろに聞こえたまひけり。はかなき御返りも、聞こえにくくつつましき方に、女方は思いたり。
「世にいといたう好きたまへる御名のひろごりて、好ましく艶に思さるべかめるも、かういと埋づもれたる葎の下よりさし出でたらむ手つきも、いかにうひうひしく、古めきたらむ」など思ひ屈したまへり。
「さても、あさましうて明け暮らさるるは、月日なりけり。かく、頼みがたかりける御世を、昨日今日とは思はで、ただおほかた定めなきはかなさばかりを、明け暮れのことに聞き見しかど、我も人も後れ先だつほどしもやは経む、などうち思ひけるよ」
「来し方を思ひ続くるも、何の頼もしげなる世にもあらざりけれど、ただいつとなくのどやかに眺め過ぐし、もの恐ろしくつつましきこともなくて経つるものを、風の音も荒らかに、例見ぬ人影も、うち連れ声づくれば、まづ胸つぶれて、もの恐ろしくわびしうおぼゆることさへ添ひにたるが、いみじう堪へがたきこと」
と、二所うち語らひつつ、干す世もなくて過ぐしたまふに、年も暮れにけり。
第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち
[第一段 歳末の宇治の姫君たち]
雪霰降りしくころは、いづくもかくこそはある風の音なれど、今はじめて思ひ入りたらむ山住みの心地したまふ。女ばらなど、
「あはれ、年は替はりなむとす。心細く悲しきことを。改まるべき春待ち出でてしがな」
と、心を消たず言ふもあり。「難きことかな」と聞きたまふ。
向かひの山にも、時々の御念仏に籠もりたまひしゆゑこそ、人も参り通ひしか、阿闍梨も、いかがと、おほかたにまれに訪れきこゆれど、今は何しにかはほのめき参らむ。
いとど人目の絶え果つるも、さるべきことと思ひながら、いと悲しくなむ。何とも見ざりし山賤も、おはしまさでのち、たまさかにさしのぞき参るは、めづらしく思ほえたまふ。このころのこととて、薪、木の実拾ひて参る山人どもあり。
阿闍梨の室より、炭などやうのものたてまつるとて、
「年ごろにならひはべりにける宮仕への、今とて絶えはつらむが、心細さになむ」
と聞こえたり。かならず冬籠もる山風ふせぎつべき綿衣など遣はししを、思し出でてやりたまふ。法師ばら、童べなどの上り行くも、見えみ見えずみ、いと雪深きを、泣く泣く立ち出でて見送りたまふ。
「御髪など下ろいたまうてける、さる方にておはしまさましかば、かやうに通ひ参る人も、おのづからしげからまし」
「いかにあはれに心細くとも、あひ見たてまつること絶えてやまましやは」
など、語らひたまふ。
「君なくて岩のかけ道絶えしより
松の雪をもなにとかは見る」
中の宮、
「奥山の松葉に積もる雪とだに
消えにし人を思はましかば」
うらやましくぞ、またも降り添ふや。
[第二段 薫、歳末に宇治を訪問]
中納言の君、「新しき年は、ふとしもえ訪らひきこえざらむ」と思しておはしたり。雪もいと所狭きに、よろしき人だに見えずなりにたるを、なのめならぬけはひして、軽らかにものしたまへる心ばへの、浅うはあらず思ひ知られたまへば、例よりは見入れて、御座などひきつくろはせたまふ。
墨染ならぬ御火桶、奥なる取り出でて、塵かき払ひなどするにつけても、宮の待ち喜びたまひし御けしきなどを、人びとも聞こえ出づ。対面したまふことをば、つつましくのみ思いたれど、思ひ隈なきやうに人の思ひたまへれば、いかがはせむとて、聞こえたまふ。
うちとくとはなけれど、さきざきよりはすこし言の葉続けて、ものなどのたまへるさま、いとめやすく、心恥づかしげなり。「かやうにてのみは、え過ぐし果つまじ」と思ひなりたまふも、「いとうちつけなる心かな。なほ、移りぬべき世なりけり」と思ひゐたまへり。
[第三段 薫、匂宮について語る]
「宮の、いとあやしく恨みたまふことのはべるかな。あはれなりし御一言をうけたまはりおきしさまなど、ことのついでにもや、漏らし聞こえたりけむ。またいと隈なき御心のさがにて、推し量りたまふにやはべらむ、ここになむ、ともかくも聞こえさせなすべきと頼むを、つれなき御けしきなるは、もてそこなひきこゆるぞと、たびたび怨じたまへば、心よりほかなることと思うたまふれど、里のしるべ、いとこよなうもえあらがひきこえぬを、何かは、いとさしももてなしきこえたまはむ。
好いたまへるやうに、人は聞こえなすべかめれど、心の底あやしく深うおはする宮なり。なほざりごとなどのたまふわたりの、心軽うてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものに思ひおとしたまふにや、となむ聞くこともはべる。何ごとにもあるに従ひて、心を立つる方もなく、おどけたる人こそ、ただ世のもてなしに従ひて、とあるもかかるもなのめに見なし、すこし心に違ふふしあるにも、いかがはせむ、さるべきぞ、なども思ひなすべかめれば、なかなか心長き例になるやうもあり。
崩れそめては、龍田の川の濁る名をも汚し、いふかひなく名残なきやうなることなども、皆うちまじるめれ。心の深うしみたまふべかめる御心ざまにかなひ、ことに背くこと多くなどものしたまはざらむをば、さらに、軽々しく、初め終り違ふやうなることなど、見せたまふまじきけしきになむ。
人の見たてまつり知らぬことを、いとよう見きこえたるを、もし似つかはしく、さもやと思し寄らば、そのもてなしなどは、心の限り尽くして仕うまつりなむかし。御中道のほど、乱り脚こそ痛からめ」
と、いとまめやかにて、言ひ続けたまへば、わが御みづからのこととは思しもかけず、「人の親めきていらへむかし」と思しめぐらしたまへど、なほ言ふべき言の葉もなき心地して、
「いかにとかは。かけかけしげにのたまひ続くるに、なかなか聞こえむこともおぼえはべらで」
と、うち笑ひたまへるも、おいらかなるものから、けはひをかしう聞こゆ。
[第四段 薫と大君、和歌を詠み交す]
「かならず御みづから聞こしめし負ふべきこととも思うたまへず。それは、雪を踏み分けて参り来たる心ざしばかりを、御覧じ分かむ御このかみ心にても過ぐさせたまひてよかし。かの御心寄せは、また異にぞはべべかめる。ほのかにのたまふさまもはべめりしを、いさや、それも人の分ききこえがたきことなり。御返りなどは、いづ方にかは聞こえたまふ」
と問ひ申したまふに、「ようぞ、戯れにも聞こえざりける。何となけれど、かうのたまふにも、いかに恥づかしう胸つぶれまし」と思ふに、え答へやりたまはず。
「雪深き山のかけはし君ならで
またふみかよふ跡を見ぬかな」
と書きて、さし出でたまへれば、
「御ものあらがひこそ、なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、
「つららとぢ駒ふみしだく山川を
しるべしがてらまづや渡らむ
さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」
と聞こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。けざやかに、いともの遠くすくみたるさまには見えたまはねど、今やうの若人たちのやうに、艶げにももてなさで、いとめやすく、のどかなる心ばへならむとぞ、推し量られたまふ人の御けはひなる。
かうこそは、あらまほしけれと、思ふに違はぬ心地したまふ。ことに触れて、けしきばみ寄るも、知らず顔なるさまにのみもてなしたまへば、心恥づかしうて、昔物語などをぞ、ものまめやかに聞こえたまふ。
[第五段 薫、人びとを励まして帰京]
「暮れ果てなば、雪いとど空も閉ぢぬべうはべり」
と、御供の人びと声づくれば、帰りたまひなむとて、
「心苦しう見めぐらさるる御住まひのさまなりや。ただ山里のやうにいと静かなる所の、人も行き交じらぬはべるを、さも思しかけば、いかにうれしくはべらむ」
などのたまふも、「いとめでたかるべきことかな」と、片耳に聞きて、うち笑む女ばらのあるを、中の宮は、「いと見苦しう、いかにさやうにはあるべきぞ」と見聞きゐたまへり。
御くだものよしあるさまにて参り、御供の人びとにも、肴などめやすきほどにて、土器さし出でさせたまひけり。また御移り香もて騷がれし宿直人ぞ、鬘鬚とかいふつらつき、心づきなくてある、「はかなの御頼もし人や」と見たまひて、召し出でたり。
「いかにぞ。おはしまさでのち、心細からむな」
など問ひたまふ。うちひそみつつ、心弱げに泣く。
「世の中に頼むよるべもはべらぬ身にて、一所の御蔭に隠れて、三十余年を過ぐしはべりにければ、今はまして、野山にまじりはべらむも、いかなる木のもとをかは頼むべくはべらむ」
と申して、いとど人悪ろげなり。
おはしましし方開けさせたまへれば、塵いたう積もりて、仏のみぞ花の飾り衰へず、行ひたまひけりと見ゆる御床など取りやりて、かき払ひたり。本意をも遂げば、と契りきこえしこと思ひ出でて、
「立ち寄らむ蔭と頼みし椎が本
空しき床になりにけるかな」
とて、柱に寄りゐたまへるをも、若き人びとは、覗きてめでたてまつる。
日暮れぬれば、近き所々に、御荘など仕うまつる人びとに、御秣取りにやりける、君も知りたまはぬに、田舎びたる人びとは、おどろおどろしくひき連れ参りたるを、「あやしう、はしたなきわざかな」と御覧ずれど、老い人に紛らはしたまひつ。おほかたかやうに仕うまつるべく、仰せおきて出でたまひぬ。
第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる
[第一段 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る]
年替はりぬれば、空のけしきうららかなるに、汀の氷解けたるを、ありがたくもと眺めたまふ。聖の坊より、「雪消えに摘みてはべるなり」とて、沢の芹、蕨などたてまつりたり。斎の御台に参れる。
「所につけては、かかる草木のけしきに従ひて、行き交ふ月日のしるしも見ゆるこそ、をかしけれ」
など、人びとの言ふを、「何のをかしきならむ」と聞きたまふ。
「君が折る峰の蕨と見ましかば
知られやせまし春のしるしも」
「雪深き汀の小芹誰がために
摘みかはやさむ親なしにして」
など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らしたまふ。
中納言殿よりも宮よりも、折過ぐさず訪らひきこえたまふ。うるさく何となきこと多かるやうなれば、例の、書き漏らしたるなめり。
[第二段 花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答]
花盛りのころ、宮、「かざし」を思し出でて、その折見聞きたまひし君たちなども、
「いとゆゑありし親王の御住まひを、またも見ずなりにしこと」
など、おほかたのあはれを口々聞こゆるに、いとゆかしう思されけり。
「つてに見し宿の桜をこの春は
霞隔てず折りてかざさむ」
と、心をやりてのたまへりけり。「あるまじきことかな」と見たまひながら、いとつれづれなるほどに、見所ある御文の、うはべばかりをもて消たじとて、
「いづことか尋ねて折らむ墨染に
霞みこめたる宿の桜を」
なほ、かくさし放ち、つれなき御けしきのみ見ゆれば、まことに心憂しと思しわたる。
[第三段 その後の匂宮と薫]
御心にあまりたまひては、ただ中納言を、とざまかうざまに責め恨みきこえたまへば、をかしと思ひながら、いとうけばりたる後見顔にうちいらへきこえて、あだめいたる御心ざまをも見あらはす時々は、
「いかでか、かからむには」
など、申したまへば、宮も御心づかひしたまふべし。
「心にかなふあたりを、まだ見つけぬほどぞや」とのたまふ。
大殿の六の君を思し入れぬこと、なま恨めしげに、大臣も思したりけり。されど、
「ゆかしげなき仲らひなるうちにも、大臣のことことしくわづらはしくて、何ごとの紛れをも見とがめられむがむつかしき」
と、下にはのたまひて、すまひたまふ。
その年、三条宮焼けて、入道宮も、六条院に移ろひたまひ、何くれともの騒がしきに紛れて、宇治のわたりを久しう訪れきこえたまはず。まめやかなる人の御心は、またいと異なりければ、いとのどかに、「おのがものとはうち頼みながら、女の心ゆるびたまはざらむ限りは、あざればみ情けなきさまに見えじ」と思ひつつ、「昔の御心忘れぬ方を、深く見知りたまへ」と思す。
[第四段 夏、薫、宇治を訪問]
その年、常よりも暑さを人わぶるに、「川面涼しからむはや」と思ひ出でて、にはかに参うでたまへり。朝涼みのほどに出でたまひければ、あやにくにさし来る日影もまばゆくて、宮のおはせし西の廂に、宿直人召し出でておはす。
そなたの母屋の仏の御前に、君たちものしたまひけるを、気近からじとて、わが御方に渡りたまふ御けはひ、忍びたれど、おのづから、うちみじろきたまふほど近う聞こえければ、なほあらじに、こなたに通ふ障子の端の方に、かけがねしたる所に、穴のすこし開きたるを見おきたまへりければ、外に立てたる屏風をひきやりて見たまふ。
ここもとに几帳を添へ立てたる、「あな、口惜し」と思ひて、ひき帰る、折しも、風の簾をいたう吹き上ぐべかめれば、
「あらはにもこそあれ。その几帳おし出でてこそ」
と言ふ人あなり。をこがましきものの、うれしうて見たまへば、高きも短きも、几帳を二間の簾におし寄せて、この障子に向かひて、開きたる障子より、あなたに通らむとなりけり。
[第五段 障子の向こう側の様子]
まづ、一人立ち出でて、几帳よりさし覗きて、この御供の人びとの、とかう行きちがひ、涼みあへるを見たまふなりけり。濃き鈍色の単衣に、萱草の袴もてはやしたる、なかなかさま変はりてはなやかなりと見ゆるは、着なしたまへる人からなめり。
帯はかなげにしなして、数珠ひき隠して持たまへり。いとそびやかに、様体をかしげなる人の、髪、袿にすこし足らぬほどならむと見えて、末まで塵のまよひなく、つやつやとこちたう、うつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげと見えて、匂ひやかに、やはらかにおほどきたるけはひ、女一の宮も、かうざまにぞおはすべきと、ほの見たてまつりしも思ひ比べられて、うち嘆かる。
またゐざり出でて、「かの障子は、あらはにもこそあれ」と、見おこせたまへる用意、うちとけたらぬさまして、よしあらむとおぼゆ。頭つき、髪ざしのほど、今すこしあてになまめかしきさまなり。
「あなたに屏風も添へて立ててはべりつ。急ぎてしも、覗きたまはじ」
と、若き人びと、何心なく言ふあり。
「いみじうもあるべきわざかな」
とて、うしろめたげにゐざり入りたまふほど、気高う心にくきけはひ添ひて見ゆ。黒き袷一襲、同じやうなる色合ひを着たまへれど、これはなつかしうなまめきて、あはれげに、心苦しうおぼゆ。
髪、さはらかなるほどに落ちたるなるべし、末すこし細りて、色なりとかいふめる、翡翠だちていとをかしげに、糸をよりかけたるやうなり。紫の紙に書きたる経を、片手に持ちたまへる手つき、かれよりも細さまさりて、痩せ痩せなるべし。立ちたりつる君も、障子口にゐて、何ごとにかあらむ、こなたを見おこせて笑ひたる、いと愛敬づきたり。
総角
第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ
[第一段 秋、八の宮の一周忌の準備]
あまた年耳馴れたまひにし川風も、この秋はいとはしたなくもの悲しくて、御果ての事いそがせたまふ。おほかたのあるべかしきことどもは、中納言殿、阿闍梨などぞ仕うまつりたまひける。ここには法服の事、経の飾り、こまかなる御扱ひを、人の聞こゆるに従ひて営みたまふも、いとものはかなくあはれに、「かかるよその御後見なからましかば」と見えたり。
みづからも参うでたまひて、今はと脱ぎ捨てたまふほどの御訪らひ、浅からず聞こえたまふ。阿闍梨もここに参れり。名香の糸ひき乱りて、「かくても経ぬる」など、うち語らひたまふほどなりけり。結び上げたるたたりの、簾のつまより、几帳のほころびに透きて見えければ、そのことと心得て、「わが涙をば玉にぬかなむ」とうち誦じたまへる、伊勢の御もかくこそありけめと、をかしく聞こゆるも、内の人は、聞き知り顔にさしいらへたまはむもつつましくて、「ものとはなしに」とか、「貫之がこの世ながらの別れをだに、心細き筋にひきかけけむも」など、げに古言ぞ、人の心をのぶるたよりなりけるを思ひ出でたまふ。
[第二段 薫、大君に恋心を訴える]
御願文作り、経仏供養ぜらるべき心ばへなど書き出でたまへる硯のついでに、客人、
「あげまきに長き契りを結びこめ
同じ所に縒りも会はなむ」
と書きて、見せたてまつりたまへれば、例の、とうるさけれど、
「ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に
長き契りをいかが結ばむ」
とあれば、「あはずは何を」と、恨めしげに眺めたまふ。
みづからの御上は、かくそこはかとなくもて消ちて恥づかしげなるに、すがすがともえのたまひよらで、宮の御ことをぞまめやかに聞こえたまふ。
「さしも御心に入るまじきことを、かやうの方にすこしすすみたまへる御本性に、聞こえそめたまひけむ負けじ魂にやと、とざまかうざまに、いとよくなむ御けしき見たてまつる。まことにうしろめたくはあるまじげなるを、などかくあながちにしも、もて離れたまふらむ。
世のありさまなど、思し分くまじくは見たてまつらぬを、うたて、遠々しくのみもてなさせたまへば、かばかりうらなく頼みきこゆる心に違ひて、恨めしくなむ。ともかくも思し分くらむさまなどを、さはやかに承りにしがな」
と、いとまめだちて聞こえたまへば、
「違へじの心にてこそは、かうまであやしき世の例なるありさまにて、隔てなくもてなしはべれ。それを思し分かざりけるこそは、浅きことも混ざりたる心地すれ。げに、かかる住まひなどに、心あらむ人は、思ひ残す事、あるまじきを、何事にも後れそめにけるうちに、こののたまふめる筋は、いにしへも、さらにかけて、とあらばかからばなど、行く末のあらましごとに取りまぜて、のたまひ置くこともなかりしかば、なほ、かかるさまにて、世づきたる方を思ひ絶ゆべく思しおきてける、となむ思ひ合はせはべれば、ともかくも聞こえむ方なくて。さるは、すこし世籠もりたるほどにて、深山隠れには心苦しく見えたまふ人の御上を、いとかく朽木にはなし果てずもがなと、人知れず扱はしくおぼえはべれど、いかなるべき世にかあらむ」
と、うち嘆きてもの思ひ乱れたまひけるほどのけはひ、いとあはれげなり。
[第三段 薫、弁を呼び出して語る]
けざやかにおとなびても、いかでかは賢しがりたまはむと、ことわりにて、例の、古人召し出でてぞ語らひたまふ。
「年ごろは、ただ後の世ざまの心ばへにて進み参りそめしを、もの心細げに思しなるめりし御末のころほひ、この御事どもを、心にまかせてもてなしきこゆべくなむのたまひ契りてしを、思しおきてたてまつりたまひし御ありさまどもには違ひて、御心ばへどもの、いといとあやにくにもの強げなるは、いかに、思しおきつる方の異なるにやと、疑はしきことさへなむ。
おのづから聞き伝へたまふやうもあらむ。いとあやしき本性にて、世の中に心をしむる方なかりつるを、さるべきにてや、かうまでも聞こえ馴れにけむ。世人もやうやう言ひなすやうあべかめるに、同じくは昔の御ことも違へきこえず、我も人も世の常に心とけて聞こえはべらばや、と思ひよるは、つきなかるべきことにても、さやうなる例なくやはある」
などのたまひ続けて、
「宮の御ことをも、かく聞こゆるに、うしろめたくはあらじと、うちとけたまふさまならぬは、うちうちに、さりとも思ほし向けたることのさまあらむ。なほ、いかに、いかに」
とうち眺めつつのたまへば、例の、悪ろびたる女ばらなどは、かかることには、憎きさかしらも言ひまぜて、言よがりなどもすめるを、いとさはあらず、心のうちには、「あらまほしかるべき御ことどもを」と思へど、
[第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き)]
「もとより、かく人に違ひたまへる御癖どもにはべればにや、いかにもいかにも、世の常に何やかやなど、思ひよりたまへる御けしきになむはべらぬ。
かくて、さぶらふこれかれも、年ごろだに、何の頼もしげある木の本の隠ろへもはべらざりき。身を捨てがたく思ふ限りは、ほどほどにつけてまかで散り、昔の古き筋なる人も、多く見たてまつり捨てたるあたりに、まして今は、しばしも立ちとまりがたげにわびはべりて、おはしましし世にこそ、限りありて、かたほならむ御ありさまは、いとほしくもなど、古代なる御うるはしさに、思しもとどこほりつれ。
今は、かう、また頼みなき御身どもにて、いかにもいかにも、世になびきたまへらむを、あながちにそしりきこえむ人は、かへりてものの心をも知らず、言ふかひなきことにてこそはあらめ。いかなる人か、いとかくて世をば過ぐし果てたまふべき。
松の葉をすきて勤むる山伏だに、生ける身の捨てがたさによりてこそ、仏の御教へをも、道々別れては行ひなすなれ、などやうの、よからぬことを聞こえ知らせ、若き御心ども乱れたまひぬべきこと多くはべるめれど、たわむべくもものしたまはず、中の宮をなむ、いかで人めかしくも扱ひなしたてまつらむ、と思ひきこえたまふべかめる。
かく山深く訪ねきこえさせたまふめる御心ざしの、年経て見たてまつり馴れたまへるけはひも、疎からず思ひきこえさせたまひ、今はとざまかうざまに、こまかなる筋聞こえ通ひたまふめるに、かの御方を、さやうにおもむけて聞こえたまはば、となむ思すべかめる。
宮の御文などはべるめるは、さらにまめまめしき御ことならじ、とはべるめる」
と聞こゆれば、
「あはれなる御一言を聞きおき、露の世にかかづらはむ限りは、聞こえ通はむの心あれば、いづ方にも見えたてまつらむ、同じことなるべきを、さまではた、思しよるなる、いとうれしきことなれど、心の引く方なむ、かばかり思ひ捨つる世に、なほとまりぬべきものなりければ、改めてさはえ思ひなほすまじくなむ。世の常になよびかなる筋にもあらずや。
ただかやうにもの隔てて、こと残いたるさまならず、さし向ひて、とにかくに定めなき世の物語を、隔てなく聞こえて、つつみたまふ御心の隈残らずもてなしたまはむなむ、兄弟などのさやうに睦ましきほどなるもなくて、いとさうざうしくなむ、世の中の思ふことの、あはれにも、をかしくも、愁はしくも、時につけたるありさまを、心に籠めてのみ過ぐる身なれば、さすがにたつきなくおぼゆるに、疎かるまじく頼みきこゆる。
后の宮、はた、なれなれしく、さやうにそこはかとなき思ひのままなるくだくだしさを、聞こえ触るべきにもあらず。三条の宮は、親と思ひきこゆべきにもあらぬ御若々しさなれど、限りあれば、たやすく馴れきこえさせずかし。その他の女は、すべていと疎くつつましく、恐ろしくおぼえて、心からよるべなく心細きなり。
なほざりのすさびにても、懸想だちたることは、いとまばゆくありつかず、はしたなきこちごちしさにて、まいて心にしめたる方のことは、うち出づることは難くて、怨めしくもいぶせくも思ひきこゆるけしきをだに見えたてまつらぬこそ、我ながら限りなくかたくなしきわざなれ。宮の御ことをも、さりとも悪しざまには聞こえじと、まかせてやは見たまはぬ」
など言ひゐたまへり。老い人、はた、かばかり心細きに、あらまほしげなる御ありさまを、いと切に、さもあらせたてまつらばやと思へど、いづ方も恥づかしげなる御ありさまどもなれば、思ひのままにはえ聞こえず。
[第五段 薫、大君の寝所に迫る]
今宵は泊りたまひて、物語などのどやかに聞こえまほしくて、やすらひ暮らしたまひつ。あざやかならず、もの怨みがちなる御けしき、やうやうわりなくなりゆけば、わづらはしくて、うちとけて聞こえたまはむことも、いよいよ苦しけれど、おほかたにてはありがたくあはれなる人の御心なれば、こよなくももてなしがたくて、対面したまふ。
仏のおはする中の戸を開けて、御燈明の火けざやかにかかげさせて、簾に屏風を添へてぞおはする。外にも大殿油参らすれど、「悩ましうて無礼なるを。あらはに」など諌めて、かたはら臥したまへり。御くだものなど、わざとはなくしなして参らせたまへり。
御供の人びとにも、ゆゑゆゑしき肴などして出ださせたまへり。廊めいたる方に集まりて、この御前は人げ遠くもてなして、しめじめと物語聞こえたまふ。うちとくべくもあらぬものから、なつかしげに愛敬づきて、もののたまへるさまの、なのめならず心に入りて、思ひ焦らるるもはかなし。
「かくほどもなきものの隔てばかりを障り所にて、おぼつかなく思ひつつ過ぐす心おそさの、あまりをこがましくもあるかな」と思ひ続けらるれど、つれなくて、おほかたの世の中のことども、あはれにもをかしくも、さまざま聞き所多く語らひきこえたまふ。
内には、「人びと、近く」などのたまひおきつれど、「さしも、もて離れたまはざらなむ」と思ふべかめれば、いとしも護りきこえず、さし退つつ、みな寄り臥して、仏の御燈火もかかぐる人もなし。ものむつかしくて、忍びて人召せど、おどろかず。
「心地のかき乱り、悩ましくはべるを、ためらひて、暁方にもまた聞こえむ」
とて、入りたまひなむとするけしきなり。
「山路分けはべりつる人は、ましていと苦しけれど、かく聞こえ承るに慰めてこそはべれ。うち捨てて入らせたまひなば、いと心細からむ」
とて、屏風をやをら押し開けて入りたまひぬ。いとむくつけくて、半らばかり入りたまへるに、引きとどめられて、いみじくねたく心憂ければ、
「隔てなきとは、かかるをや言ふらむ。めづらかなるわざかな」
と、あはめたまへるさまの、いよいよをかしければ、
「隔てぬ心をさらに思し分かねば、聞こえ知らせむとぞかし。めづらかなりとも、いかなる方に、思しよるにかはあらむ。仏の御前にて誓言も立てはべらむ。うたて、な懼ぢたまひそ。御心破らじと思ひそめてはべれば。人はかくしも推し量り思ふまじかめれど、世に違へる痴者にて過ぐしはべるぞや」
とて、心にくきほどなる火影に、御髪のこぼれかかりたるを、かきやりつつ見たまへば、人の御けはひ、思ふやうに香りをかしげなり。
[第六段 薫、大君をかき口説く]
「かく心細くあさましき御住み処に、好いたらむ人は障り所あるまじげなるを、我ならで尋ね来る人もあらましかば、さてや止みなまし。いかに口惜しきわざならまし」と、来し方の心のやすらひさへ、あやふくおぼえたまへど、言ふかひなく憂しと思ひて泣きたまふ御けしきの、いといとほしければ、「かくはあらで、おのづから心ゆるびしたまふ折もありなむ」と思ひわたる。
わりなきやうなるも心苦しくて、さまよくこしらへきこえたまふ。
「かかる御心のほどを思ひよらで、あやしきまで聞こえ馴れにたるを、ゆゆしき袖の色など、見あらはしたまふ心浅さに、みづからの言ふかひなさも思ひ知らるるに、さまざま慰む方なく」
と恨みて、何心もなくやつれたまへる墨染の火影を、いとはしたなくわびしと思ひ惑ひたまへり。
「いとかくしも思さるるやうこそはと、恥づかしきに、聞こえむ方なし。袖の色をひきかけさせたまふはしも、ことわりなれど、ここら御覧じなれぬる心ざしのしるしには、さばかりの忌おくべく、今始めたることめきてやは思さるべき。なかなかなる御わきまへ心になむ」
とて、かの物の音聞きし有明の月影よりはじめて、折々の思ふ心の忍びがたくなりゆくさまを、いと多く聞こえたまふに、「恥づかしくもありけるかな」と疎ましく、「かかる心ばへながらつれなくまめだちたまひけるかな」と、聞きたまふこと多かり。
御かたはらなる短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かりそめに添ひ臥したまへり。名香のいと香ばしく匂ひて、樒のいとはなやかに薫れるけはひも、人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にて、わづらはしく、「墨染の今さらに、折ふし心焦られしたるやうに、あはあはしく、思ひそめしに違ふべければ、かかる忌なからむほどに、この御心にも、さりともすこしたわみたまひなむ」など、せめてのどかに思ひなしたまふ。
秋の夜のけはひは、かからぬ所だに、おのづからあはれ多かるを、まして峰の嵐も籬の虫も、心細げにのみ聞きわたさる。常なき世の御物語に、時々さしいらへたまへるさま、いと見所多くめやすし。いぎたなかりつる人びとは、「かうなりけり」と、けしきとりてみな入りぬ。
宮ののたまひしさまなど思し出づるに、「げに、ながらへば、心の外にかくあるまじきことも見るべきわざにこそは」と、もののみ悲しくて、水の音に流れ添ふ心地したまふ。
[第七段 実事なく朝を迎える]
はかなく明け方になりにけり。御供の人びと起きて声づくり、馬どものいばゆる音も、旅の宿りのあるやうなど人の語るを、思しやられて、をかしく思さる。光見えつる方の障子を押し開けたまひて、空のあはれなるをもろともに見たまふ。女もすこしゐざり出でたまへるに、ほどもなき軒の近さなれば、しのぶの露もやうやう光見えもてゆく。かたみにいと艶なるさま、容貌どもを、
「何とはなくて、ただかやうに月をも花をも、同じ心にもてあそび、はかなき世のありさまを聞こえ合はせてなむ、過ぐさまほしき」
と、いとなつかしきさまして語らひきこえたまへば、やうやう恐ろしさも慰みて、
「かういとはしたなからで、もの隔ててなど聞こえば、真に心の隔てはさらにあるまじくなむ」
といらへたまふ。
明くなりゆき、むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ。夜深き朝の鐘の音かすかに響く。「今は、いと見苦しきを」と、いとわりなく恥づかしげに思したり。
「ことあり顔に朝露もえ分けはべるまじ。また、人はいかが推し量りきこゆべき。例のやうになだらかにもてなさせたまひて、ただ世に違ひたることにて、今より後も、ただかやうにしなさせたまひてよ。よにうしろめたき心はあらじと思せ。かばかりあながちなる心のほども、あはれと思し知らぬこそかひなけれ」
とて、出でたまはむのけしきもなし。あさましく、かたはならむとて、
「今より後は、さればこそ、もてなしたまはむままにあらむ。今朝は、また聞こゆるに従ひたまへかし」
とて、いとすべなしと思したれば、
「あな、苦しや。暁の別れや。まだ知らぬことにて、げに、惑ひぬべきを」
と嘆きがちなり。鶏も、いづ方にかあらむ、ほのかにおとなふに、京思ひ出でらる。
「山里のあはれ知らるる声々に
とりあつめたる朝ぼらけかな」
女君、
「鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを
世の憂きことは訪ね来にけり」
障子口まで送りたてまつりたまひて、昨夜入りし戸口より出でて、臥したまへれど、まどろまれず。名残恋しくて、「いとかく思はましかば、月ごろも今まで心のどかならましや」など、帰らむことももの憂くおぼえたまふ。
[第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う]
姫宮は、人の思ふらむことのつつましきに、とみにもうち臥されたまはで、「頼もしき人なくて世を過ぐす身の心憂きを、ある人どもも、よからぬこと何やかやと、次々に従ひつつ言ひ出づめるに、心よりほかのことありぬべき世なめり」と思しめぐらすには、
「この人の御けはひありさまの、疎ましくはあるまじく、故宮も、さやうなる御心ばへあらばと、折々のたまひ思すめりしかど、みづからは、なほかくて過ぐしてむ。我よりはさま容貌も盛りにあたらしげなる中の宮を、人なみなみに見なしたらむこそうれしからめ。人の上になしては、心のいたらむ限り思ひ後見てむ。みづからの上のもてなしは、また誰れかは見扱はむ。
この人の御さまの、なのめにうち紛れたるほどならば、かく見馴れぬる年ごろのしるしに、うちゆるぶ心もありぬべきを、恥づかしげに見えにくきけしきも、なかなかいみじくつつましきに、わが世はかくて過ぐし果ててむ」
と思ひ続けて、音泣きがちに明かしたまへるに、名残いと悩ましければ、中の宮の臥したまへる奥の方に添ひ臥したまふ。
例ならず、人のささめきしけしきもあやしと、この宮は思しつつ寝たまへるに、かくておはしたれば、うれしくて、御衣ひき着せたてまつりたまふに、御移り香の紛るべくもあらず、くゆりかかる心地すれば、宿直人がもて扱ひけむ思ひあはせられて、「まことなるべし」と、いとほしくて、寝ぬるやうにてものものたまはず。
客人は、弁のおもと呼び出でたまひて、こまかに語らひおき、御消息すくすくしく聞こえおきて出でたまひぬ。「総角を戯れにとりなししも、心もて、尋ばかりの隔ても対面しつるとや、この君も思すらむ」と、いみじく恥づかしければ、心地悪しとて、悩み暮らしたまひつ。人びと、
「日は残りなくなりはべりぬ。はかばかしく、はかなきことをだに、また仕うまつる人もなきに、折悪しき御悩みかな」
と聞こゆ。中の宮、組などし果てたまひて、
「心葉など、えこそ思ひよりはべらね」
と、せめて聞こえたまへば、暗くなりぬる紛れに起きたまひて、もろともに結びなどしたまふ。中納言殿より御文あれど、
「今朝よりいと悩ましくなむ」
とて、人伝てにぞ聞こえたまふ。
「さも、見苦しく、若々しくおはす」
と、人びとつぶやききこゆ。
第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる
[第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問]
御服など果てて、脱ぎ捨てたまへるにつけても、かた時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを思すに、いみじく思ひのほかなる身の憂さと、泣き沈みたまへる御さまども、いと心苦しげなり。
月ごろ黒く馴らはしたる御姿、薄鈍にて、いとなまめかしくて、中の宮は、げにいと盛りにて、うつくしげなる匂ひまさりたまへり。御髪など澄ましつくろはせて見たてまつりたまふに、世の物思ひ忘るる心地してめでたければ、人知れず、「近劣りしては思はずやあらむ」と、頼もしくうれしくて、今はまた見譲る人もなくて、親心にかしづきたてて見きこえたまふ。
かの人は、つつみきこえたまひし藤の衣も改めたまへらむ長月も、静心なくて、またおはしたり。「例のやうに聞こえむ」と、また御消息あるに、心あやまりして、わづらはしくおぼゆれば、とかく聞こえすまひて対面したまはず。
「思ひの外に心憂き御心かな。人もいかに思ひはべらむ」
と、御文にて聞こえたまへり。
「今はとて脱ぎはべりしほどの心惑ひに、なかなか沈みはべりてなむ、え聞こえぬ」
とあり。
怨みわびて、例の人召して、よろづにのたまふ。世に知らぬ心細さの慰めには、この君をのみ頼みきこえたる人びとなれば、思ひにかなひたまひて、世の常の住み処に移ろひなどしたまはむを、いとめでたかるべきことに言ひ合はせて、「ただ入れたてまつらむ」と、皆語らひ合はせけり。
[第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める]
姫宮、そのけしきをば深く見知りたまはねど、「かく取り分きて人めかしなつけたまふめるに、うちとけて、うしろめたき心もやあらむ。昔物語にも、心もてやは、とあることもかかることもあめる。うちとくまじき人の心にこそあめれ」と思ひよりたまひて、
「せめて怨み深くは、この君をおし出でむ。劣りざまならむにてだに、さても見そめては、あさはかにはもてなすまじき心なめるを、まして、ほのかにも見そめては、慰みなむ。言に出でては、いかでかは、ふとさることを待ち取る人のあらむ。本意になむあらぬと、うけひくけしきのなかなるは、かたへは人の思はむことを、あいなう浅き方にやなど、つつみたまふならむ」
と思し構ふるを、「けしきだに知らせたまはずは、罪もや得む」と、身をつみていとほしければ、よろづにうち語らひて、
「昔の御おもむけも、世の中をかく心細くて過ぐし果つとも、なかなか人笑へに、かろがろしき心つかふな、などのたまひおきしを、おはせし世の御ほだしにて、行ひの御心を乱りし罪だにいみじかりけむを、今はとて、さばかりのたまひし一言をだに違へじ、と思ひはべれば、心細くなどもことに思はぬを、この人びとの、あやしく心ごはきものに憎むめるこそ、いとわりなけれ。
げに、さのみやうのものと過ぐしたまはむも、明け暮るる月日に添へても、御ことをのみこそ、あたらしく心苦しくかなしきものに思ひきこゆるを、君だに世の常にもてなしたまひて、かかる身のありさまもおもだたしく、慰むばかり見たてまつりなさばや」
と聞こえたまはば、いかに思すにかと、心憂くて、
「一所をのみやは、さて世に果てたまへとは、聞こえたまひけむ。はかばかしくもあらぬ身のうしろめたさは、数添ひたるやうにこそ、思されためりしか。心細き御慰めには、かく朝夕に見たてまつるより、いかなるかたにか」
と、なま恨めしく思ひたまひつれば、げにと、いとほしくて、
「なほ、これかれ、うたてひがひがしきものに言ひ思ふべかめるにつけて、思ひ乱れはべるぞや」
と、言ひさしたまひつ。
[第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す]
暮れゆくに、客人は帰りたまはず。姫宮、いとむつかしと思す。弁参りて、御消息ども聞こえ伝へて、怨みたまふをことわりなるよしを、つぶつぶと聞こゆれば、いらへもしたまはず、うち嘆きて、
「いかにもてなすべき身にかは。一所おはせましかば、ともかくも、さるべき人に扱はれたてまつりて、宿世といふなる方につけて、身を心ともせぬ世なれば、皆例のことにてこそは、人笑へなる咎をも隠すなれ。ある限りの人は年積もり、さかしげにおのがじしは思ひつつ、心をやりて、似つかはしげなることを聞こえ知らすれど、こは、はかばかしきことかは。人めかしからぬ心どもにて、ただ一方に言ふにこそは」
と見たまへば、引き動かしつばかり聞こえあへるも、いと心憂く疎ましくて、動ぜられたまはず。同じ心に何ごとも語らひきこえたまふ中の宮は、かかる筋には、今すこし心も得ずおほどかにて、何とも聞き入れたまはねば、「あやしくもありける身かな」と、ただ奥ざまに向きておはすれば、
「例の色の御衣どもたてまつり替へよ」
など、そそのかしきこえつつ、皆、さる心すべかめるけしきを、あさましく、「げに、何の障り所かはあらむ。ほどもなくて、かかる御住まひのかひなき、山梨の花ぞ」、逃れむ方なかりける。
客人は、かく顕証に、これかれにも口入れさせず、「忍びやかに、いつありけむことともなくもてなしてこそ」と思ひそめたまひけることなれば、
「御心許したまはずは、いつもいつも、かくて過ぐさむ」
と思しのたまふを、この老い人の、おのがじし語らひて、顕証にささめき、さは言へど、深からぬけに、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる。
[第四段 大君、弁と相談する]
姫宮、思しわづらひて、弁が参れるにのたまふ。
「年ごろも、人に似ぬ御心寄せとのみのたまひわたりしを聞きおき、今となりては、よろづに残りなく頼みきこえて、あやしきまでうちとけにたるを、思ひしに違ふさまなる御心ばへの混じりて、恨みたまふめるこそわりなけれ。世に人めきてあらまほしき身ならば、かかる御ことをも、何かはもて離れても思はまし。
されど、昔より思ひ離れそめたる心にて、いと苦しきを。この君の盛り過ぎたまはむも口惜し。げに、かかる住まひも、ただこの御ゆかりに所狭くのみおぼゆるを、まことに昔を思ひきこえたまふ心ざしならば、同じことに思ひなしたまへかし。身を分けたる心のうちは皆ゆづりて、見たてまつらむ心地なむすべき。なほ、かうやうによろしげに聞こえなされよ」
と、恥ぢらひたるものから、あるべきさまをのたまひ続くれば、いとあはれと見たてまつる。
「さのみこそは、さきざきも御けしきを見たまふれば、いとよく聞こえさすれど、さはえ思ひ改むまじ、兵部卿宮の御恨み、深さまさるめれば、またそなたざまに、いとよく後見きこえむ、となむ聞こえたまふ。それも思ふやうなる御ことどもなり。二所ながらおはしまして、ことさらに、いみじき御心尽くしてかしづききこえさせたまはむに、えしも、かく世にありがたき御ことども、さし集ひたまはざらまし。
かしこけれど、かくいとたつきなげなる御ありさまを見たてまつるに、いかになり果てさせたまはむと、うしろめたく悲しくのみ見たてまつるを、後の御心は知りがたけれど、うつくしくめでたき御宿世どもにこそおはしましけれとなむ、かつがつ思ひきこゆる。
故宮の御遺言違へじと思し召すかたはことわりなれど、それは、さるべき人のおはせず、品ほどならぬことやおはしまさむと思して、戒めきこえさせたまふめりしにこそ。
この殿の、さやうなる心ばへものしたまはましかば、一所をうしろやすく見おきたてまつりて、いかにうれしからましと、折々のたまはせしものを。ほどほどにつけて、思ふ人に後れたまひぬる人は、高きも下れるも、心の外に、あるまじきさまにさすらふたぐひだにこそ多くはべるめれ。
それ皆例のことなめれば、もどき言ふ人もはべらず。まして、かくばかり、ことさらにも作り出でまほしげなる人の御ありさまに、心ざし深くありがたげに聞こえたまふを、あながちにもて離れさせたまうて、思しおきつるやうに、行ひの本意を遂げたまふとも、さりとて雲霞をやは」
など、すべてこと多く申し続くれば、いと憎く心づきなしと思して、ひれ臥したまへり。
[第五段 大君、中の君を残して逃れる]
中の宮も、あいなくいとほしき御けしきかなと、見たてまつりたまひて、もろともに例のやうに大殿籠もりぬ。うしろめたく、いかにもてなさむ、とおぼえたまへど、ことさらめきて、さし籠もり隠ろへたまふべきものの隈だになき御住まひなれば、なよよかにをかしき御衣、上にひき着せたてまつりたまひて、まだけはひ暑きほどなれば、すこしまろび退きて臥したまへり。
弁は、のたまひつるさまを客人に聞こゆ。「いかなれば、いとかくしも世を思ひ離れたまふらむ。聖だちたまへりしあたりにて、常なきものに思ひ知りたまへるにや」と思すに、いとどわが心通ひておぼゆれば、さかしだち憎くもおぼえず。
「さらば、物越などにも、今はあるまじきことに思しなるにこそはあなれ。今宵ばかり、大殿籠もるらむあたりにも、忍びてたばかれ」
とのたまへば、心して、人疾く静めなど、心知れるどちは思ひ構ふ。
宵すこし過ぐるほどに、風の音荒らかにうち吹くに、はかなきさまなる蔀などは、ひしひしと紛るる音に、「人の忍びたまへる振る舞ひは、え聞きつけたまはじ」と思ひて、やをら導き入る。
同じ所に大殿籠もれるを、うしろめたしと思へど、常のことなれば、「ほかほかにともいかが聞こえむ。御けはひをも、たどたどしからず見たてまつり知りたまへらむ」と思ひけるに、うちもまどろみたまはねば、ふと聞きつけたまて、やをら起き出でたまひぬ。いと疾くはひ隠れたまひぬ。
何心もなく寝入りたまへるを、いといとほしく、いかにするわざぞと、胸つぶれて、もろともに隠れなばやと思へど、さもえ立ち返らで、わななくわななく見たまへば、火のほのかなるに、袿姿にて、いと馴れ顔に、几帳の帷を引き上げて入りぬるを、いみじくいとほしく、「いかにおぼえたまはむ」と思ひながら、あやしき壁の面に、屏風を立てたるうしろの、むつかしげなるにゐたまひぬ。
「あらましごとにてだに、つらしと思ひたまへりつるを、まいて、いかにめづらかに思し疎まむ」と、いと心苦しきにも、すべてはかばかしき後見なくて、落ちとまる身どもの悲しきを思ひ続けたまふに、今はとて山に登りたまひし夕べの御さまなど、ただ今の心地して、いみじく恋しく悲しくおぼえたまふ。
[第六段 薫、相手を中の君と知る]
中納言は、独り臥したまへるを、心しけるにやとうれしくて、心ときめきしたまふに、やうやうあらざりけりと見る。「今すこしうつくしくらうたげなるけしきはまさりてや」とおぼゆ。
あさましげにあきれ惑ひたまへるを、「げに、心も知らざりける」と見ゆれば、いといとほしくもあり、またおし返して、隠れたまへらむつらさの、まめやかに心憂くねたければ、これをもよそのものとはえ思ひ放つまじけれど、なほ本意の違はむ、口惜しくて、
「うちつけに浅かりけりともおぼえたてまつらじ。この一ふしは、なほ過ぐして、つひに、宿世逃れずは、こなたざまにならむも、何かは異人のやうにやは」
と思ひ覚まして、例の、をかしくなつかしきさまに語らひて明かしたまひつ。
老い人どもは、しそしつと思ひて、
「中の宮、いづこにかおはしますらむ。あやしきわざかな」
と、たどりあへり。
「さりとも、あるやうあらむ」
など言ふ。
「おほかた例の、見たてまつるに皺のぶる心地して、めでたくあはれに見まほしき御容貌ありさまを、などて、いともて離れては聞こえたまふらむ。何か、これは世の人の言ふめる、恐ろしき神ぞ、憑きたてまつりたらむ」
と、歯はうちすきて、愛敬なげに言ひなす女あり。また、
「あな、まがまがし。なぞのものか憑かせたまはむ。ただ、人に遠くて、生ひ出でさせたまふめれば、かかることにも、つきづきしげにもてなしきこえたまふ人もなくおはしますに、はしたなく思さるるにこそ。今おのづから見たてまつり馴れたまひなば、思ひきこえたまひてむ」
など語らひて、
「とくうちとけて、思ふやうにておはしまさなむ」
と言ふ言ふ寝入りて、いびきなど、かたはらいたくするもあり。
逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど、ほどもなく明けぬる心地して、いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひを、人やりならず飽かぬ心地して、
「あひ思せよ。いと心憂くつらき人の御さま、見習ひたまふなよ」
など、後瀬を契りて出でたまふ。我ながらあやしく夢のやうにおぼゆれど、なほつれなき人の御けしき、今一たび見果てむの心に、思ひのどめつつ、例の、出でて臥したまへり。
[第七段 翌朝、それぞれの思い]
弁参りて、
「いとあやしく、中の宮は、いづくにかおはしますらむ」
と言ふを、いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に、「いかなりけむことにか」と思ひ臥したまへり。昨日のたまひしことを思し出でて、姫宮をつらしと思ひきこえたまふ。
明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。思すらむことのいといとほしければ、かたみにものも言はれたまはず。
「ゆかしげなく、心憂くもあるかな。今より後も、心ゆるびすべくもあらぬ世にこそ」
と思ひ乱れたまへり。
弁はあなたに参りて、あさましかりける御心強さを聞きあらはして、「いとあまり深く、人憎かりけること」と、いとほしく思ひほれゐたり。
「来し方のつらさは、なほ残りある心地して、よろづに思ひ慰めつるを、今宵なむ、まことに恥づかしく、身も投げつべき心地する。捨てがたく落としおきたてまつりたまへりけむ心苦しさを思ひきこゆる方こそ、また、ひたぶるに、身をもえ思ひ捨つまじけれ。かけかけしき筋は、いづ方にも思ひきこえじ。憂きもつらきも、かたがたに忘られたまふまじくなむ。
宮などの、恥づかしげなく聞こえたまふめるを、同じくは心高く、と思ふ方ぞ異にものしたまふらむ、と心得果てつれば、いとことわりに恥づかしくて。また参りて、人びとに見えたてまつらむこともねたくなむ。よし、かくをこがましき身の上、また人にだに漏らしたまふな」
と、怨じおきて、例よりも急ぎ出でたまひぬ。「誰が御ためもいとほしく」と、ささめきあへり。
[第八段 薫と大君、和歌を詠み交す]
姫君も、「いかにしつることぞ、もしおろかなる心ものしたまはば」と、胸つぶれて心苦しければ、すべて、うちあはぬ人びとのさかしら、憎しと思す。さまざま思ひたまふに、御文あり。例よりはうれしとおぼえたまふも、かつはあやし。秋のけしきも知らず顔に、青き枝の、片枝いと濃く紅葉ぢたるを、
「おなじ枝を分きて染めける山姫に
いづれか深き色と問はばや」
さばかり怨みつるけしきも、言少なにことそぎて、おし包みたまへるを、「そこはかとなくもてなしてやみなむとなめり」と見たまふも、心騷ぎて見る。
かしかましく、「御返り」と言へば、「聞こえたまへ」と譲らむも、うたておぼえて、さすがに書きにくく思ひ乱れたまふ。
「山姫の染むる心はわかねども
移ろふ方や深きなるらむ」
ことなしびに書きたまへるが、をかしく見えければ、なほえ怨じ果つまじくおぼゆ。
「身を分けてなど、譲りたまふけしきは、たびたび見えしかど、うけひかぬにわびて構へたまへるなめり。そのかひなく、かくつれなからむもいとほしく、情けなきものに思ひおかれて、いよいよはじめの思ひかなひがたくやあらむ。
とかく言ひ伝へなどすめる老い人の思はむところも軽々しく、とにかくに心を染めけむだに悔しく、かばかりの世の中を思ひ捨てむの心に、みづからもかなはざりけりと、人悪ろく思ひ知らるるを、まして、おしなべたる好き者のまねに、同じあたり返すがへす漕ぎめぐらむ、いと人笑へなる棚無し小舟めきたるべし」
など、夜もすがら思ひ明かしたまひて、まだ有明の空もをかしきほどに、兵部卿宮の御方に参りたまふ。
第三章 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚
[第一段 薫、匂宮を訪問]
三条宮焼けにし後は、六条院にぞ移ろひたまへれば、近くては常に参りたまふ。宮も、思すやうなる御心地したまひけり。紛るることなくあらまほしき御住まひに、御前の前栽、他のには似ず、同じ花の姿も、木草のなびきざまも、ことに見なされて、遣水に澄める月の影さへ、絵に描きたるやうなるに、思ひつるもしるく起きおはしましけり。
風につきて吹き来る匂ひの、いとしるくうち薫るに、ふとそれとうち驚かれて、御直衣たてまつり、乱れぬさまに引きつくろひて出でたまふ。
階を昇りも果てず、ついゐたまへれば、「なほ、上に」などものたまはで、高欄によりゐたまひて、世の中の御物語聞こえ交はしたまふ。かのわたりのことをも、もののついでには思し出でて、「よろづに恨みたまふも、わりなしや。みづからの心にだにかなひがたきを」と思ふ思ふ、「さもおはせなむ」と思ひなるやうのあれば、例よりはまめやかに、あるべきさまなど申したまふ。
明けぐれのほど、あやにくに霧りわたりて、空のけはひ冷やかなるに、月は霧に隔てられて、木の下も暗くなまめきたり。山里のあはれなるありさま思ひ出でたまふにや、
「このころのほどは、かならず後らかしたまふな」
と語らひたまふを、なほ、わづらはしがれば、
「女郎花咲ける大野をふせぎつつ
心せばくやしめを結ふらむ」
と戯れたまふ。
「霧深き朝の原の女郎花
心を寄せて見る人ぞ見る
なべてやは」
など、ねたましきこゆれば、
「あな、かしかまし」と、果て果ては腹立ちたまひぬ。
年ごろかくのたまへど、人の御ありさまをうしろめたく思ひしに、「容貌なども見おとしたまふまじく推し量らるる、心ばせの近劣りするやうもや」などぞ、あやふく思ひわたりしを、「何ごとも口惜しくはものしたまふまじかめり」と思へば、かの、いとほしく、うちうちに思ひたばかりたまふありさまも違ふやうならむも、情けなきやうなるを、さりとて、さはたえ思ひ改むまじくおぼゆれば、譲りきこえて、「いづ方の恨みをも負はじ」など、下に思ひ構ふる心をも知りたまはで、心せばくとりなしたまふもをかしけれど、
「例の、軽らかなる御心ざまに、もの思はせむこそ、心苦しかるべけれ」
など、親方になりて聞こえたまふ。
「よし、見たまへ。かばかり心にとまることなむ、まだなかりつる」
など、いとまめやかにのたまへば、
「かの心どもには、さもやとうちなびきぬべきけしきは見えずなむはべる。仕うまつりにくき宮仕へにこそはべるや」
とて、おはしますべきやうなど、こまかに聞こえ知らせたまふ。
[第二段 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う]
二十八日の、彼岸の果てにて、吉き日なりければ、人知れず心づかひして、いみじく忍びて率てたてまつる。后の宮など聞こし召し出でては、かかる御ありきいみじく制しきこえたまへば、いとわづらはしきを、切に思したることなれば、さりげなくともて扱ふも、わりなくなむ。
舟渡りなども所狭ければ、ことことしき御宿りなども、借りたまはず、そのわたりいと近き御庄の人の家に、いと忍びて、宮をば下ろしたてまつりたまひて、おはしぬ。見とがめたてまつるべき人もなけれど、宿直人はわづかに出でてありくにも、けしき知らせじとなるべし。
「例の、中納言殿おはします」とて経営しあへり。君たちなまわづらはしく聞きたまへど、「移ろふ方異に匂はしおきてしかば」と、姫宮思す。中の宮は、「思ふ方異なめりしかば、さりとも」と思ひながら、心憂かりしのちは、ありしやうに姉宮をも思ひきこえたまはず、心おかれてものしたまふ。
何やかやと御消息のみ聞こえ通ひて、いかなるべきことにかと、人びとも心苦しがる。
宮をば、御馬にて、暗き紛れにおはしまさせたまひて、弁召し出でて、
「ここもとに、ただ一言聞こえさすべきことなむはべるを、思し放つさま見たてまつりてしに、いと恥づかしけれど、ひたや籠もりにては、えやむまじきを、今しばし更かしてを、ありしさまには導きたまひてむや」
など、うらもなく語らひたまへば、「いづ方にも同じことにこそは」など思ひて参りぬ。
[第三段 薫、中の君を匂宮にと企む]
「さなむ」と聞こゆれば、「さればよ、思ひ移りにけり」と、うれしくて心落ちゐて、かの入りたまふべき道にはあらぬ廂の障子を、いとよくさして、対面したまへり。
「一言聞こえさすべきが、また人聞くばかりののしらむはあやなきを、いささか開けさせたまへ。いといぶせし」
と聞こえさせたまへど、
「いとよく聞こえぬべし」
とて、開けたまはず。「今はと移ろひなむを、ただならじとて言ふべきにや。何かは、例ならぬ対面にもあらず、人憎くいらへで、夜も更かさじ」など思ひて、かばかりも出でたまへるに、障子の中より御袖を捉へて引き寄せて、いみじく怨むれば、「いとうたてもあるわざかな。何に聞き入れつらむ」と、悔しくむつかしけれど、「こしらへて出だしてむ」と思して、異人と思ひわきたまふまじきさまに、かすめつつ語らひたまへる心ばへなど、いとあはれなり。
宮は、教へきこえつるままに、一夜の戸口に寄りて、扇を鳴らしたまへば、弁も参りて導ききこゆ。さきざきも馴れにける道のしるべ、をかしと思しつつ入りたまひぬるをも、姫宮は知りたまはで、「こしらへ入れてむ」と思したり。
をかしくもいとほしくもおぼえて、うちうちに心も知らざりける恨みおかれむも、罪さりどころなき心地すべければ、
「宮の慕ひたまひつれば、え聞こえいなびで、ここにおはしつる。音もせでこそ、紛れたまひぬれ。このさかしだつめる人や、語らはれたてまつりぬらむ。中空に人笑へにもなりはべりぬべきかな」
とのたまふに、今すこし思ひよらぬことの、目もあやに心づきなくなりて、
「かく、よろづにめづらかなりける御心のほども知らで、言ふかひなき心幼さも見えたてまつりにけるおこたりに、思しあなづるにこそは」
と、言はむ方なく思ひたまへり。
[第四段 薫、大君の寝所に迫る]
「今は言ふかひなし。ことわりは、返すがへす聞こえさせてもあまりあらば、抓みもひねらせたまへ。やむごとなき方に思しよるめるを、宿世などいふめるもの、さらに心にかなはぬものにはべるめれば、かの御心ざしは異にはべりけるを、いとほしく思ひたまふるに、かなはぬ身こそ、置き所なく心憂くはべりけれ。
なほ、いかがはせむに思し弱りね。この御障子の固めばかり、いと強きも、まことにもの清く推し量りきこゆる人もはべらじ。しるべと誘ひたまへる人の御心にも、まさにかく胸ふたがりて、明かすらむとは、思しなむや」
とて、障子をも引き破りつべきけしきなれば、言はむ方なく心づきなけれど、こしらへむと思ひしづめて、
「こののたまふ筋、宿世といふらむ方は、目にも見えぬことにて、いかにもいかにも思ひたどられず。知らぬ涙のみ霧りふたがる心地してなむ。こはいかにもてなしたまふぞと、夢のやうにあさましきに、後の世の例に言ひ出づる人もあらば、昔物語などに、をこめきて作り出でたるもののたとひにこそは、なりぬべかめれ。かく思し構ふる心のほどをも、いかなりけるとかは推し量りたまはむ。
なほ、いとかく、おどろおどろしく心憂く、な取り集め惑はしたまひそ。心より外にながらへば、すこし思ひのどまりて聞こえむ。心地もさらにかきくらすやうにて、いと悩ましきを、ここにうち休まむ。許したまへ」
と、いみじくわびたまへば、さすがにことわりをいとよくのたまふが、心恥づかしくらうたくおぼえて、
「あが君、御心に従ふことのたぐひなければこそ、かくまでかたくなしくなりはべれ。言ひ知らず憎く疎ましきものに思しなすめれば、聞こえむ方なし。いとど世に跡とむべくなむおぼえぬ」とて、「さらば、隔てながらも、聞こえさせむ。ひたぶるに、なうち捨てさせたまひそ」
とて、許したてまつりたまへれば、這ひ入りて、さすがに、入りも果てたまはぬを、いとあはれと思ひて、
「かばかりの御けはひを慰めにて、明かしはべらむ。ゆめ、ゆめ」
と聞こえて、うちもまどろまず、いとどしき水の音に目も覚めて、夜半のあらしに、山鳥の心地して、明かしかねたまふ。
[第五段 薫、再び実事なく夜を明かす]
例の、明け行くけはひに、鐘の声など聞こゆ。「いぎたなくて出でたまふべきけしきもなきよ」と、心やましく、声づくりたまふも、げにあやしきわざなり。
「しるべせし我やかへりて惑ふべき
心もゆかぬ明けぐれの道
かかる例、世にありけむや」
とのたまへば、
「かたがたにくらす心を思ひやれ
人やりならぬ道に惑はば」
と、ほのかにのたまふを、いと飽かぬ心地すれば、
「いかに、こよなく隔たりてはべるめれば、いとわりなうこそ」
など、よろづに怨みつつ、ほのぼのと明けゆくほどに、昨夜の方より出でたまふなり。いとやはらかに振る舞ひなしたまへる匂ひなど、艶なる御心げさうには、言ひ知らずしめたまへり。ねび人どもは、いとあやしく心得がたく思ひ惑はれけれど、「さりとも悪しざまなる御心あらむやは」と慰めたり。
暗きほどにと、急ぎ帰りたまふ。道のほども、帰るさはいとはるけく思されて、心安くもえ行き通はざらむことの、かねていと苦しきを、「夜をや隔てむ」と思ひ悩みたまふなめり。まだ人騒がしからぬ朝のほどにおはし着きぬ。廊に御車寄せて降りたまふ。異やうなる女車のさまして隠ろへ入りたまふに、皆笑ひたまひて、
「おろかならぬ宮仕への御心ざしとなむ思ひたまふる」
と申したまふ。しるべのをこがましさも、いと妬くて、愁へもきこえたまはず。
[第六段 匂宮、中の君へ後朝の文を書く]
宮は、いつしかと御文たてまつりたまふ。山里には、誰も誰もうつつの心地したまはず、思ひ乱れたまへり。「さまざまに思し構へけるを、色にも出だしたまはざりけるよ」と、疎ましくつらく、姉宮をば思ひきこえたまひて、目も見合はせたてまつりたまはず。知らざりしさまをも、さはさはとは、えあきらめたまはで、ことわりに心苦しく思ひきこえたまふ。
人びとも、「いかにはべりしことにか」など、御けしき見たてまつれど、思しほれたるやうにて、頼もし人のおはすれば、「あやしきわざかな」と思ひあへり。御文もひき解きて見せたてまつりたまへど、さらに起き上がりたまはねば、「いと久しくなりぬ」と御使わびけり。
「世の常に思ひやすらむ露深き
道の笹原分けて来つるも」
書き馴れたまへる墨つきなどの、ことさらに艶なるも、おほかたにつけて見たまひしは、をかしくおぼえしを、うしろめたくもの思はしくて、我さかし人にて聞こえむも、いとつつましければ、まめやかに、あるべきやうを、いみじくせめて書かせたてまつりたまふ。
紫苑色の細長一襲に、三重襲の袴具して賜ふ。御使苦しげに思ひたれば、包ませて、供なる人になむ贈らせたまふ。ことことしき御使にもあらず、例たてまつれたまふ上童なり。ことさらに、人にけしき漏らさじと思しければ、「昨夜のさかしがりし老い人のしわざなりけり」と、ものしくなむ、聞こしめしける。
[第七段 匂宮と中の君、結婚第二夜]
その夜も、かのしるべ誘ひたまへど、「冷泉院にかならずさぶらふべきことはべれば」とて、とまりたまひぬ。「例の、ことに触れて、すさまじげに世をもてなす」と、憎く思す。
「いかがはせむ。本意ならざりしこととて、おろかにやは」と思ひ弱りたまひて、御しつらひなどうちあはぬ住み処なれど、さる方にをかしくしなして待ちきこえたまひけり。はるかなる御中道を、急ぎおはしましたりけるも、うれしきわざなるぞ、かつはあやしき。
正身は、我にもあらぬさまにて、つくろはれたてまつりたまふままに、濃き御衣のいたく濡るれば、さかし人もうち泣きたまひつつ、
「世の中に久しくもとおぼえはべらねば、明け暮れのながめにも、ただ御ことをのみなむ、心苦しく思ひきこゆるに、この人びとも、よかるべきさまのことと、聞きにくきまで言ひ知らすめれば、年経たる心どもには、さりとも、世のことわりをも知りたらむ。
はかばかしくもあらぬ心一つを立てて、かくてのみやは、見たてまつらむ、と思ひなるやうもありしかど、ただ今かく、思ひもあへず、恥づかしきことどもに乱れ思ふべくは、さらに思ひかけはべらざりしに、これや、げに、人の言ふめる逃れがたき御契りなりけむ。いとこそ、苦しけれ。すこし思し慰みなむに、知らざりしさまをも聞こえむ。憎しと、な思し入りそ。罪もぞ得たまふ」
と、御髪をなでつくろひつつ聞こえたまへば、いらへもしたまはねど、さすがに、かく思しのたまふが、げに、うしろめたく悪しかれとも思しおきてじを、人笑へに見苦しきこと添ひて、見扱はれたてまつらむがいみじさを、よろづに思ひゐたまへり。
さる心もなく、あきれたまへりしけはひだに、なべてならずをかしかりしを、まいてすこし世の常になよびたまへるは、御心ざしもまさるに、たはやすく通ひたまはざらむ山道のはるけさも、胸痛きまで思して、心深げに語らひ頼めたまへど、あはれともいかにとも思ひ分きたまはず。
言ひ知らずかしづくものの姫君も、すこし世の常の人げ近く、親せうとなどいひつつ、人のたたずまひをも見馴れたまへるは、ものの恥づかしさも、恐ろしさもなのめにやあらむ。家にあがめきこゆる人こそなけれ、かく山深き御あたりなれば、人に遠く、もの深くてならひたまへる心地に、思ひかけぬありさまの、つつましく恥づかしく、何ごとも世の人に似ず、あやしく田舎びたらむかし。はかなき御いらへにても言ひ出でむ方なくつつみたまへり。さるは、この君しもぞ、らうらうじくかどある方の匂ひはまさりたまへる。
[第八段 匂宮と中の君、結婚第三夜]
「三日にあたる夜、餅なむ参る」と人びとの聞こゆれば、「ことさらにさるべき祝ひのことにこそは」と思して、御前にてせさせたまふも、たどたどしく、かつは大人になりておきてたまふも、人の見るらむこと憚られて、面うち赤めておはするさま、いとをかしげなり。このかみ心にや、のどかに気高きものから、人のためあはれに情け情けしくぞおはしける。
中納言殿より、
「昨夜、参らむと思たまへしかど、宮仕への労も、しるしなげなる世に、思たまへ恨みてなむ。
今宵は雑役もやと思うたまふれど、宿直所のはしたなげにはべりし乱り心地、いとど安からで、やすらはれはべり」
と、陸奥紙におひつぎ書きたまひて、まうけのものども、こまやかに、縫ひなどもせざりける、いろいろおし巻きなどしつつ、御衣櫃あまた懸籠入れて、老い人のもとに、「人びとの料に」とて賜へり。宮の御方にさぶらひけるに従ひて、いと多くもえ取り集めたまはざりけるにやあらむ、ただなる絹綾など、下には入れ隠しつつ、御料とおぼしき二領。いときよらにしたるを、単衣の御衣の袖に、古代のことなれど、
「小夜衣着て馴れきとは言はずとも
かことばかりはかけずしもあらじ」
と、脅しきこえたまへり。
こなたかなた、ゆかしげなき御ことを、恥づかしくいとど見たまひて、御返りにもいかがは聞こえむと、思しわづらふほど、御使かたへは、逃げ隠れにけり。あやしき下人をひかへてぞ、御返り賜ふ。
「隔てなき心ばかりは通ふとも
馴れし袖とはかけじとぞ思ふ」
心あわたたしく思ひ乱れたまへる名残に、いとどなほなほしきを、思しけるままと、待ち見たまふ人は、ただあはれにぞ思ひなされたまふ。
第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
[第一段 明石中宮、匂宮の外出を諌める]
宮は、その夜、内裏に参りたまひて、えまかでたまふまじげなるを、人知れず御心も空にて思し嘆きたるに、中宮、
「なほ、かく独りおはしまして、世の中に、好いたまへる御名のやうやう聞こゆる、なほ、いと悪しきことなり。何事ももの好ましく、立てたる御心なつかひたまひそ。上もうしろめたげに思しのたまふ」
と、里住みがちにおはしますを諌めきこえたまへば、いと苦しと思して、御宿直所に出でたまひて、御文書きてたてまつれたまへる名残も、いたくうち眺めておはしますに、中納言の君参りたまへり。
そなたの心寄せと思せば、例よりもうれしくて、
「いかがすべき。いとかく暗くなりぬめるを、心も乱れてなむ」
と、嘆かしげに思したり。「よく御けしきを見たてまつらむ」と思して、
「日ごろ経て、かく参りたまへるを、今宵さぶらはせたまはで、急ぎまかでたまひなむ、いとどよろしからぬことにや思しきこえさせたまはむ。台盤所の方にて承りつれば、人知れず、わづらはしき宮仕へのしるしに、あいなき勘当にやはべらむと、顔の色違ひはべりつる」
と申したまへば、
「いと聞きにくくぞ思しのたまふや。多くは人のとりなすことなるべし。世に咎めあるばかりの心は、何事にかは、つかふらむ。所狭き身のほどこそ、なかなかなるわざなりけれ」
とて、まことに厭はしくさへ思したり。
いとほしく見たてまつりたまひて、
「同じ御騒がれにこそはおはすなれ。今宵の罪には代はりきこえて、身をもいたづらになしはべりなむかし。木幡の山に馬はいかがはべるべき。いとどものの聞こえや障り所なからむ」
と聞こえたまへば、ただ暮れに暮れて更けにける夜なれば、思しわびて、御馬にて出でたまひぬ。
「御供には、なかなか仕うまつらじ。御後見を」
とて、この君は内裏にさぶらひたまふ。
[第二段 薫、明石中宮に対面]
中宮の御方に参りたまひつれば、
「宮は出でたまひぬなり。あさましくいとほしき御さまかな。いかに人見たてまつるらむ。上聞こし召しては、諌めきこえぬが言ふかひなき、と思しのたまふこそわりなけれ」
とのたまふ。あまた宮たちの、かくおとなび整ひたまへど、大宮は、いよいよ若くをかしきけはひなむ、まさりたまひける。
「女一の宮も、かくぞおはしますべかめる。いかならむ折に、かばかりにてももの近く、御声をだに聞きたてまつらむ」と、あはれとおぼゆ。「好いたる人の、おぼゆまじき心つかふらむも、かうやうなる御仲らひの、さすがに気遠からず入り立ちて、心にかなはぬ折のことならむかし。わが心のやうに、ひがひがしき心のたぐひやは、また世にあんべかめる。それに、なほ動きそめぬるあたりは、えこそ思ひ絶えね」
など思ひゐたまへる。さぶらふ限りの女房の容貌心ざま、いづれとなく悪ろびたるなく、めやすくとりどりにをかしきなかに、あてにすぐれて目にとまるあれど、さらにさらに乱れそめじの心にて、いときすくにもてなしたまへり。ことさらに見えしらがふ人もあり。
おほかた恥づかしげに、もてしづめたまへるあたりなれば、上べこそ心ばかりもてしづめたれ、心々なる世の中なりければ、色めかしげにすすみたる下の心漏りて見ゆるもあるを、「さまざまにをかしくも、あはれにもあるかな」と、立ちてもゐても、ただ常なきありさまを思ひありきたまふ。
[第三段 女房たちと大君の思い]
かしこには、中納言殿のことことしげに言ひなしたまへりつるを、夜更くるまでおはしまさで、御文のあるを、「さればよ」と胸つぶれておはするに、夜中近くなりて、荒ましき風のきほひに、いともなまめかしくきよらにて匂ひおはしたるも、いかがおろかにおぼえたまはむ。
正身も、いささかうちなびきて、思ひ知りたまふことあるべし。いみじくをかしげに盛りと見えて、引きつくろひたまへるさまは、「ましてたぐひあらじはや」とおぼゆ。
さばかりよき人を多く見たまふ御目にだに、けしうはあらずと、容貌よりはじめて、多く近まさりしたりと思さるれば、山里の老い人どもは、まして口つき憎げにうち笑みつつ、
「かくあたらしき御ありさまを、なのめなる際の人の見たてまつりたまはましかば、いかに口惜しからまし。思ふやうなる御宿世」
と聞こえつつ、姫宮の御心を、あやしくひがひがしくもてなしたまふを、もどき口ひそみきこゆ。
盛り過ぎたるさまどもに、あざやかなる花の色々、似つかはしからぬをさし縫ひつつ、ありつかずとりつくろひたる姿どもの、罪許されたるもなきを見わたされたまひて、姫宮、
「我もやうやう盛り過ぎぬる身ぞかし。鏡を見れば、痩せ痩せになりもてゆく。おのがじしは、この人どもも、我悪しとやは思へる。うしろでは知らず顔に、額髪をひきかけつつ、色どりたる顔づくりをよくしてうち振る舞ふめり。わが身にては、まだいとあれがほどにはあらず。目も鼻も直しとおぼゆるは、心のなしにやあらむ」
とうしろめたくて、見出だして臥したまへり。「恥づかしげならむ人に見えむことは、いよいよかたはらいたく、今一二年あらば、衰へまさりなむ。はかなげなる身のありさまを」と、御手つきの細やかにか弱く、あはれなるをさし出でても、世の中を思ひ続けたまふ。
[第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る]
宮は、ありがたかりつる御暇のほどを思しめぐらすに、「なほ、心やすかるまじきことにこそは」と、胸ふたがりておぼえたまひけり。大宮の聞こえたまひしさまなど語りきこえたまひて、
「思ひながらとだえあらむを、いかなるにか、と思すな。夢にてもおろかならむに、かくまでも参り来まじきを。心のほどやいかがと疑ひて、思ひ乱れたまはむが心苦しさに、身を捨ててなむ。常にかくはえ惑ひありかじ。さるべきさまにて、近く渡したてまつらむ」
と、いと深く聞こえたまへど、「絶え間あるべく思さるらむは、音に聞きし御心のほどしるべきにや」と心おかれて、わが御ありさまから、さまざまもの嘆かしくてなむありける。
明け行くほどの空に、妻戸押し開けたまひて、もろともに誘ひ出でて見たまへば、霧りわたれるさま、所からのあはれ多く添ひて、例の、柴積む舟のかすかに行き交ふ跡の白波、「目馴れずもある住まひのさまかな」と、色なる御心には、をかしく思しなさる。
山の端の光やうやう見ゆるに、女君の御容貌のまほにうつくしげにて、「限りなくいつき据ゑたらむ姫宮も、かばかりこそはおはすべかめれ。思ひなしの、わが方ざまのいといつくしきぞかし。こまやかなる匂ひなど、うちとけて見まほしく」、なかなかなる心地す。
水の音なひなつかしからず、宇治橋のいともの古りて見えわたさるるなど、霧晴れゆけば、いとど荒ましき岸のわたりを、「かかる所に、いかで年を経たまふらむ」など、うち涙ぐみたまへるを、いと恥づかしと聞きたまふ。
男の御さまの、限りなくなまめかしくきよらにて、この世のみならず契り頼めきこえたまへば、「思ひ寄らざりしこととは思ひながら、なかなか、かの目馴れたりし中納言の恥づかしさよりは」とおぼえたまふ。
「かれは思ふ方異にて、いといたく澄みたるけしきの、見えにくく恥づかしげなりしに、よそに思ひきこえしは、ましてこよなくはるかに、一行書き出でたまふ御返り事だに、つつましくおぼえしを、久しく途絶えたまはむは、心細からむ」
と思ひならるるも、我ながらうたて、と思ひ知りたまふ。
[第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる]
人びといたく声づくり催しきこゆれば、京におはしまさむほど、はしたなからぬほどにと、いと心あわたたしげにて、心より外ならむ夜がれを、返す返すのたまふ。
「中絶えむものならなくに橋姫の
片敷く袖や夜半に濡らさむ」
出でがてに、立ち返りつつやすらひたまふ。
「絶えせじのわが頼みにや宇治橋の
遥けきなかを待ちわたるべき」
言には出でねど、もの嘆かしき御けはひは、限りなく思されけり。
若き人の御心にしみぬべく、たぐひすくなげなる朝けの御姿を見送りて、名残とまれる御移り香なども、人知れずものあはれなるは、されたる御心かな。今朝ぞ、もののあやめ見ゆるほどにて、人びと覗きて見たてまつる。
「中納言殿は、なつかしく恥づかしげなるさまぞ、添ひたまへりける。思ひなしの、今ひと際にや、この御さまは、いとことに」
など、めできこゆ。
道すがら、心苦しかりつる御けしきを思し出でつつ、立ちも返りなまほしく、さま悪しきまで思せど、世の聞こえを忍びて帰らせたまふほどに、えたはやすくも紛れさせたまはず。
御文は明くる日ごとに、あまた返りづつたてまつらせたまふ。「おろかにはあらぬにや」と思ひながら、おぼつかなき日数の積もるを、「いと心尽くしに見じと思ひしものを、身にまさりて心苦しくもあるかな」と、姫宮は思し嘆かるれど、いとどこの君の思ひ沈みたまはむにより、つれなくもてなして、「みづからだに、なほかかること思ひ加へじ」と、いよいよ深く思す。
中納言の君も、「待ち遠にぞ思すらむかし」と思ひやりて、我があやまちにいとほしくて、宮を聞こえおどろかしつつ、絶えず御けしきを見たまふに、いといたく思ほし入れたるさまなれば、さりともと、うしろやすかりけり。
[第六段 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く]
九月十日のほどなれば、野山のけしきも思ひやらるるに、時雨めきてかきくらし、空のむら雲恐ろしげなる夕暮、宮いとど静心なく眺めたまひて、いかにせむと、御心一つを出で立ちかねたまふ。折推し量りて、参りたまへり。「ふるの山里いかならむ」と、おどろかしきこえたまふ。いとうれしと思して、もろともに誘ひたまへば、例の、一つ御車にておはす。
分け入りたまふままにぞ、まいて眺めたまふらむ心のうち、いとど推し量られたまふ。道のほども、ただこのことの心苦しきを語らひきこえたまふ。
たそかれ時のいみじく心細げなるに、雨は冷やかにうちそそきて、秋果つるけしきのすごきに、うちしめり濡れたまへる匂ひどもは、世のものに似ず艶にて、うち連れたまへるを、山賤どもは、いかが心惑ひもせざらむ。
女ばら、日ごろうちつぶやきつる、名残なく笑みさかえつつ、御座ひきつくろひなどす。京に、さるべき所々に行き散りたる娘ども、姪だつ人、二、三人尋ね寄せて参らせたり。年ごろあなづりきこえける心浅き人びと、めづらかなる客人と思ひ驚きたり。
姫宮も、折うれしく思ひきこえたまふに、さかしら人の添ひたまへるぞ、恥づかしくもありぬべく、なまわづらはしく思へど、心ばへののどかにもの深くものしたまふを、「げに、人はかくはおはせざりけり」と見あはせたまふに、ありがたしと思ひ知らる。
[第七段 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える]
宮を、所につけては、いとことにかしづき入れたてまつりて、この君は、主人方に心やすくもてなしたまふものから、まだ客人居のかりそめなる方に出だし放ちたまへれば、いとからしと思ひたまへり。怨みたまふもさすがにいとほしくて、物越に対面したまふ。
「戯れにくくもあるかな。かくてのみや」と、いみじく怨みきこえたまふ。やうやうことわり知りたまひにたれど、人の御上にても、ものをいみじく思ひ沈みたまひて、いとどかかる方を憂きものに思ひ果てて、
「なほ、ひたぶるに、いかでかくうちとけじ。あはれと思ふ人の御心も、かならずつらしと思ひぬべきわざにこそあめれ。我も人も見おとさず、心違はでやみにしがな」
と思ふ心づかひ深くしたまへり。
宮の御ありさまなども問ひきこえたまへば、かすめつつ、「さればよ」とおぼしくのたまへば、いとほしくて、思したる御さま、けしきを見ありくやうなど、語りきこえたまふ。
例よりは心うつくしく語らひて、
「なほ、かくもの思ひ加ふるほど、すこし心地も静まりて聞こえむ」
とのたまふ。人憎く気遠くは、もて離れぬものから、「障子の固めもいと強し。しひて破らむをば、つらくいみじからむ」と思したれば、「思さるるやうこそはあらめ。軽々しく異ざまになびきたまふこと、はた、世にあらじ」と、心のどかなる人は、さいへど、いとよく思ひ静めたまふ。
「ただ、いとおぼつかなく、もの隔てたるなむ、胸あかぬ心地するを。ありしやうにて聞こえむ」
とせめたまへど、
「常よりもわが面影に恥づるころなれば、疎ましと見たまひてむも、さすがに苦しきは、いかなるにか」
と、ほのかにうち笑ひたまへるけはひなど、あやしくなつかしくおぼゆ。
「かかる御心にたゆめられたてまつりて、つひにいかになるべき身にか」
と嘆きがちにて、例の、遠山鳥にて明けぬ。
宮は、まだ旅寝なるらむとも思さで、
「中納言の、主人方に心のどかなるけしきこそうらやましけれ」
とのたまへば、女君、あやしと聞きたまふ。
[第八段 匂宮、中の君を重んじる]
わりなくておはしまして、ほどなく帰りたまふが、飽かず苦しきに、宮ものをいみじく思したり。御心のうちを知りたまはねば、女方には、「またいかならむ。人笑へにや」と思ひ嘆きたまへば、「げに、心尽くしに苦しげなるわざかな」と見ゆ。
京にも、隠ろへて渡りたまふべき所もさすがになし。六条の院には、左の大殿、片つ方には住みたまひて、さばかりいかでと思したる六の君の御ことを思しよらぬに、なま恨めしと思ひきこえたまふべかめり。好き好きしき御さまと、許しなくそしりきこえたまひて、内裏わたりにも愁へきこえたまふべかめれば、いよいよ、おぼえなくて出だし据ゑたまはむも、憚ることいと多かり。
なべてに思す人の際は、宮仕への筋にて、なかなか心やすげなり。さやうの並々には思されず、「もし世の中移りて、帝后の思しおきつるままにもおはしまさば、人より高きさまにこそなさめ」など、ただ今は、いとはなやかに、心にかかりたまへるままに、もてなさむ方なく苦しかりけり。
中納言は、三条の宮造り果てて、「さるべきさまにて渡したてまつらむ」と思す。
げに、ただ人は心やすかりけり。かくいと心苦しき御けしきながら、やすからず忍びたまふからに、かたみに思ひ悩みたまへるめるも、心苦しくて、「忍びてかく通ひたまふよしを、中宮などにも漏らし聞こし召させて、しばしの御騒がれはいとほしくとも、女方の御ためは、咎もあらじ。いとかく夜をだに明かしたまはぬ苦しげさよ。いみじくもてなしてあらせたてまつらばや」
など思ひて、あながちにも隠ろへず。
「更衣など、はかばかしく誰れかは扱ふらむ」など思して、御帳の帷、壁代など、三条の宮造り果てて、渡りたまはむ心まうけに、しおかせたまへるを、「まづ、さるべき用なむ」など、いと忍びて聞こえたまひて、たてまつれたまふ。さまざまなる女房の装束、御乳母などにものたまひつつ、わざともせさせたまひけり。
第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り
[第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り]
十月朔日ころ、網代もをかしきほどならむと、そそのかしきこえたまひて、紅葉御覧ずべく申したまふ。親しき宮人ども、殿上人の睦ましく思す限り、「いと忍びて」と思せど、所狭き御勢なれば、おのづからこと広ごりて、左の大殿の宰相中将参りたまふ。さては、この中納言殿ばかりぞ、上達部は仕うまつりたまふ。ただ人は多かり。
かしこには、「論なく、中宿りしたまはむを、さるべきさまに思せ。さきの春も、花見に尋ね参り来しこれかれ、かかるたよりにことよせて、時雨の紛れに見たてまつり表すやうもぞはべる」など、こまやかに聞こえたまへり。
御簾掛け替へ、ここかしこかき払ひ、岩隠れに積もれる紅葉の朽葉すこしはるけ、遣水の水草払はせなどぞしたまふ。よしあるくだもの、肴など、さるべき人などもたてまつれたまへり。かつはゆかしげなけれど、「いかがはせむ。これもさるべきにこそは」と思ひ許して、心まうけしたまへり。
舟にて上り下り、おもしろく遊びたまふも聞こゆ。ほのぼのありさま見ゆるを、そなたに立ち出でて、若き人びと見たてまつる。正身の御ありさまは、それと見わかねども、紅葉を葺きたる舟の飾りの、錦と見ゆるに、声々吹き出づる物の音ども、風につけておどろおどろしきまでおぼゆ。
世人のなびきかしづきたてまつるさま、かく忍びたまへる道にも、いとことにいつくしきを見たまふにも、「げに、七夕ばかりにても、かかる彦星の光をこそ待ち出でめ」とおぼえたり。
文作らせたまふべき心まうけに、博士などもさぶらひけり。たそかれ時に、御舟さし寄せて遊びつつ文作りたまふ。紅葉を薄く濃くかざして、「海仙楽」といふものを吹きて、おのおの心ゆきたるけしきなるに、宮は、近江の海の心地して、遠方人の恨みいかにとのみ、御心そらなり。時につけたる題出だして、うそぶき誦じあへり。
人の迷ひすこししづめておはせむと、中納言も思して、さるべきやうに聞こえたまふほどに、内裏より、中宮の仰せ言にて、宰相の御兄の衛門督、ことことしき随身ひき連れて、うるはしきさまして参りたまへり。かうやうの御ありきは、忍びたまふとすれど、おのづからこと広ごりて、後の例にもなるわざなるを、重々しき人数あまたもなくて、にはかにおはしましにけるを、聞こしめしおどろきて、殿上人あまた具して参りたるに、はしたなくなりぬ。宮も中納言も、苦しと思して、物の興もなくなりぬ。御心のうちをば知らず、酔ひ乱れ遊び明かしつ。
[第二段 一行、和歌を唱和する]
今日は、かくてと思すに、また、宮の大夫、さらぬ殿上人など、あまたたてまつりたまへり。心あわたたしく口惜しくて、帰りたまはむそらなし。かしこには御文をぞたてまつれたまふ。をかしやかなることもなく、いとまめだちて、思しけることどもを、こまごまと書き続けたまへれど、「人目しげく騒がしからむに」とて、御返りなし。
「数ならぬありさまにては、めでたき御あたりに交じらはむ、かひなきわざかな」と、いとど思し知りたまふ。よそにて隔たる月日は、おぼつかなさもことわりに、さりともなど慰めたまふを、近きほどにののしりおはして、つれなく過ぎたまひなむ、つらくも口惜しくも思ひ乱れたまふ。
宮は、まして、いぶせくわりなしと思すこと、限りなし。網代の氷魚も心寄せたてまつりて、いろいろの木の葉にかきまぜもてあそぶを、下人などはいとをかしきことに思へれば、人に従ひつつ、心ゆく御ありきに、みづからの御心地は、胸のみつとふたがりて、空をのみ眺めたまふに、この古宮の梢は、いとことにおもしろく、常磐木にはひ混じれる蔦の色なども、もの深げに見えて、遠目さへすごげなるを、中納言の君も、「なかなか頼めきこえけるを、憂はしきわざかな」とおぼゆ。
去年の春、御供なりし君たちは、花の色を思ひ出でて、後れてここに眺めたまふらむ心細さを言ふ。かく忍び忍びに通ひたまふと、ほの聞きたるもあるべし。心知らぬも混じりて、おほかたにとやかくやと、人の御上は、かかる山隠れなれど、おのづから聞こゆるものなれば、
「いとをかしげにこそものしたまふなれ」
「箏の琴上手にて、故宮の明け暮れ遊びならはしたまひければ」
など、口々言ふ。
宰相の中将、
「いつぞやも花の盛りに一目見し
木のもとさへや秋は寂しき」
主人方と思ひて言へば、中納言、
「桜こそ思ひ知らすれ咲き匂ふ
花も紅葉も常ならぬ世を」
衛門督、
「いづこより秋は行きけむ山里の
紅葉の蔭は過ぎ憂きものを」
宮の大夫、
「見し人もなき山里の岩垣に
心長くも這へる葛かな」
中に老いしらひて、うち泣きたまふ。親王の若くおはしける世のことなど、思ひ出づるなめり。
宮、
「秋はてて寂しさまさる木のもとを
吹きな過ぐしそ峰の松風」
とて、いといたく涙ぐみたまへるを、ほのかに知る人は、
「げに、深く思すなりけり。今日のたよりを過ぐしたまふ心苦しさ」
と見たてまつる人あれど、ことことしく引き続きて、えおはしまし寄らず。作りける文のおもしろき所々うち誦じ、大和歌もことにつけて多かれど、かうやうの酔ひの紛れに、ましてはかばかしきことあらむやは。片端書きとどめてだに見苦しくなむ。
[第三段 大君と中の君の思い]
かしこには、過ぎたまひぬるけはひを、遠くなるまで聞こゆる前駆の声々、ただならずおぼえたまふ。心まうけしつる人びとも、いと口惜しと思へり。姫宮は、まして、
「なほ、音に聞く月草の色なる御心なりけり。ほのかに人の言ふを聞けば、男といふものは、虚言をこそいとよくすなれ。思はぬ人を思ふ顔にとりなす言の葉多かるものと、この人数ならぬ女ばらの、昔物語に言ふを、さるなほなほしきなかにこそは、けしからぬ心あるもまじるらめ。
何ごとも筋ことなる際になりぬれば、人の聞き思ふことつつましく、所狭かるべきものと思ひしは、さしもあるまじきわざなりけり。あだめきたまへるやうに、故宮も聞き伝へたまひて、かやうに気近きほどまでは、思し寄らざりしものを。あやしきまで心深げにのたまひわたり、思ひの外に見たてまつるにつけてさへ、身の憂さを思ひ添ふるが、あぢきなくもあるかな。
かく見劣りする御心を、かつはかの中納言も、いかに思ひたまふらむ。ここにもことに恥づかしげなる人はうち混じらねど、おのおの思ふらむが、人笑へにをこがましきこと」
と思ひ乱れたまふに、心地も違ひて、いと悩ましくおぼえたまふ。
正身は、たまさかに対面したまふ時、限りなく深きことを頼め契りたまひつれば、「さりとも、こよなうは思し変らじ」と、「おぼつかなきも、わりなき障りこそは、ものしたまふらめ」と、心のうちに思ひ慰めたまふかたあり。
ほど経にけるが思ひ焦れられたまはぬにしもあらぬに、なかなかにてうち過ぎたまひぬるを、つらくも口惜しくも思ほゆるに、いとどものあはれなり。忍びがたき御けしきなるを、
「人なみなみにもてなして、例の人めきたる住まひならば、かうやうに、もてなしたまふまじきを」
など、姉宮は、いとどしくあはれと見たてまつりたまふ。
[第四段 大君の思い]
「我も世にながらへば、かうやうなること見つべきにこそはあめれ。中納言の、とざまかうざまに言ひありきたまふも、人の心を見むとなりけり。心一つにもて離れて思ふとも、こしらへやる限りこそあれ。ある人のこりずまに、かかる筋のことをのみ、いかでと思ひためれば、心より外に、つひにもてなされぬべかめり。これこそは、返す返す、さる心して世を過ぐせ、とのたまひおきしは、かかることもやあらむの諌めなりけり。
さもこそは、憂き身どもにて、さるべき人にも後れたてまつらめ。やうのものと人笑へなることを添ふるありさまにて、亡き御影をさへ悩ましたてまつらむがいみじさなるを、我だに、さるもの思ひに沈まず、罪などいと深からぬさきに、いかで亡くなりなむ」
と思し沈むに、心地もまことに苦しければ、物もつゆばかり参らず、ただ、亡からむ後のあらましごとを、明け暮れ思ひ続けたまふにも、心細くて、この君を見たてまつりたまふも、いと心苦しく、
「我にさへ後れたまひて、いかにいみじく慰む方なからむ。あたらしくをかしきさまを、明け暮れの見物にて、いかで人びとしくも見なしたてまつらむ、と思ひ扱ふをこそ、人知れぬ行く先の頼みにも思ひつれ、限りなき人にものしたまふとも、かばかり人笑へなる目を見てむ人の、世の中に立ちまじり、例の人ざまにて経たまはむは、たぐひすくなく心憂からむ」
など思し続くるに、「いふかひもなく、この世にはいささか思ひ慰む方なくて、過ぎぬべき身どもなりけり」と心細く思す。
[第五段 匂宮の禁足、薫の後悔]
宮は、立ち返り、例のやうに忍びてと出で立ちたまひけるを、内裏に、
「かかる御忍びごとにより、山里の御ありきも、ゆくりかに思し立つなりけり。軽々しき御ありさまと、世人も下にそしり申すなり」
と、衛門督の漏らし申したまひければ、中宮も聞こし召し嘆き、主上もいとど許さぬ御けしきにて、
「おほかた心にまかせたまへる御里住みの悪しきなり」
と、厳しきことども出で来て、内裏につとさぶらはせたてまつりたまふ。左の大臣殿の六の君を、うけひかず思したることなれど、おしたちて参らせたまふべく、皆定めらる。
中納言殿聞きたまひて、あいなくものを思ひありきたまふ。
「わがあまり異様なるぞや。さるべき契りやありけむ。親王のうしろめたしと思したりしさまも、あはれに忘れがたく、この君たちの御ありさまけはひも、ことなることなくて世に衰へたまはむことの、惜しくもおぼゆるあまりに、人びとしくもてなさばやと、あやしきまでもて扱はるるに、宮もあやにくにとりもちて責めたまひしかば、わが思ふ方は異なるに、譲らるるありさまもあいなくて、かくもてなしてしを。
思へば、悔しくもありけるかな。いづれもわがものにて見たてまつらむに、咎むべき人もなしかし」
と、取り返すものならねど、をこがましく、心一つに思ひ乱れたまふ。
宮は、まして、御心にかからぬ折なく、恋しくうしろめたしと思す。
「御心につきて思す人あらば、ここに参らせて、例ざまにのどやかにもてなしたまへ。筋ことに思ひきこえたまへるに、軽びたるやうに人の聞こゆべかめるも、いとなむ口惜しき」
と、大宮は明け暮れ聞こえたまふ。
[第六段 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う]
時雨いたくしてのどやかなる日、女一の宮の御方に参りたまひつれば、御前に人多くもさぶらはず、しめやかに、御絵など御覧ずるほどなり。
御几帳ばかり隔てて、御物語聞こえたまふ。限りもなくあてに気高きものから、なよびかにをかしき御けはひを、年ごろ二つなきものに思ひきこえたまひて、
「また、この御ありさまになずらふ人世にありなむや。冷泉院の姫宮ばかりこそ、御おぼえのほど、うちうちの御けはひも心にくく聞こゆれど、うち出でむ方もなく思しわたるに、かの山里人は、らうたげにあてなる方の、劣りきこゆまじきぞかし」
など、まづ思ひ出づるに、いとど恋しくて、慰めに、御絵どものあまた散りたるを見たまへば、をかしげなる女絵どもの、恋する男の住まひなど描きまぜ、山里のをかしき家居など、心々に世のありさま描きたるを、よそへらるること多くて、御目とまりたまへば、すこし聞こえたまひて、「かしこへたてまつらむ」と思す。
在五が物語を描きて、妹に琴教へたる所の、「人の結ばむ」と言ひたるを見て、いかが思すらむ、すこし近く参り寄りたまひて、
「いにしへの人も、さるべきほどは、隔てなくこそならはしてはべりけれ。いと疎々しくのみもてなさせたまふこそ」
と、忍びて聞こえたまへば、「いかなる絵にか」と思すに、おし巻き寄せて、御前にさし入れたまへるを、うつぶして御覧ずる御髪のうちなびきて、こぼれ出でたるかたそばばかり、ほのかに見たてまつりたまへる、飽かずめでたく、「すこしももの隔てたる人と思ひきこえましかば」と思すに、忍びがたくて、
「若草のね見むものとは思はねど
むすぼほれたる心地こそすれ」
御前なる人びとは、この宮をばことに恥ぢきこえて、もののうしろに隠れたり。「ことしもこそあれ、うたてあやし」と思せば、ものものたまはず。ことわりにて、「うらなくものを」と言ひたる姫君も、されて憎く思さる。
紫の上の、取り分きてこの二所をばならはしきこえたまひしかば、あまたの御中に、隔てなく思ひ交はしきこえたまへり。世になくかしづききこえたまひて、さぶらふ人びとも、かたほにすこし飽かぬところあるは、はしたなげなり。やむごとなき人の御女などもいと多かり。
御心の移ろひやすきは、めづらしき人びとに、はかなく語らひつきなどしたまひつつ、かのわたりを思し忘るる折なきものから、訪れたまはで日ごろ経ぬ。
第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護
[第一段 薫、大君の病気を知る]
待ちきこえたまふ所は、絶え間遠き心地して、「なほ、かくなめり」と、心細く眺めたまふに、中納言おはしたり。悩ましげにしたまふと聞きて、御とぶらひなりけり。いと心地惑ふばかりの御悩みにもあらねど、ことつけて、対面したまはず。
「おどろきながら、はるけきほどを参り来つるを。なほ、かの悩みたまふらむ御あたり近く」
と、切におぼつかながりきこえたまへば、うちとけて住まひたまへる方の御簾の前に入れたてまつる。「いとかたはらいたきわざ」と苦しがりたまへど、けにくくはあらで、御頭もたげ、御いらへなど聞こえたまふ。
宮の、御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど、語りきこえたまひて、
「のどかに思せ。心焦られして、な恨みきこえたまひそ」
など教へきこえたまへば、
「ここには、ともかくも聞こえたまはざめり。亡き人の御諌めはかかることにこそ、と見はべるばかりなむ、いとほしかりける」
とて、泣きたまふけしきなり。いと心苦しく、我さへ恥づかしき心地して、
「世の中は、とてもかくても一つさまにて過ぐすこと難くなむはべるを。いかなることをも御覧じ知らぬ御心どもには、ひとへに恨めしなど思すこともあらむを、しひて思しのどめよ。うしろめたくはよにあらじとなむ思ひはべる」
など、人の御上をさへ扱ふも、かつはあやしくおぼゆ。
夜々は、ましていと苦しげにしたまひければ、疎き人の御けはひの近きも、中の宮の苦しげに思したれば、
「なほ、例の、あなたに」
と人びと聞こゆれど、
「まして、かくわづらひたまふほどのおぼつかなさを。思ひのままに参り来て、出だし放ちたまへれば、いとわりなくなむ。かかる折の御扱ひも、誰れかははかばかしく仕うまつる」
など、弁のおもとに語らひたまひて、御修法ども始むべきことのたまふ。「いと見苦しく、ことさらにも厭はしき身を」と聞きたまへど、思ひ隈なくのたまはむもうたてあれば、さすがに、ながらへよと思ひたまへる心ばへもあはれなり。
[第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る]
またの朝に、「すこしもよろしく思さるや。昨日ばかりにてだに聞こえさせむ」とあれば、
「日ごろ経ればにや、今日はいと苦しくなむ。さらば、こなたに」
と言ひ出だしたまへり。いとあはれに、いかにものしたまふべきにかあらむ、ありしよりはなつかしき御けしきなるも、胸つぶれておぼゆれば、近く寄りて、よろづのことを聞こえたまひて、
「苦しくてえ聞こえず。すこしためらはむほどに」
とて、いとかすかにあはれなるけはひを、限りなく心苦しくて嘆きゐたまへり。さすがに、つれづれとかくておはしがたければ、いとうしろめたけれど、帰りたまふ。
「かかる御住まひは、なほ苦しかりけり。所さりたまふにことよせて、さるべき所に移ろはしたてまつらむ」
など聞こえおきて、阿闍梨にも、御祈り心に入るべくのたまひ知らせて、出でたまひぬ。
この君の御供なる人の、いつしかと、ここなる若き人を語らひ寄りたるなりけり。おのがじしの物語に、
「かの宮の、御忍びありき制せられたまひて、内裏にのみ籠もりおはします。左の大殿の君を、あはせたてまつりたまへるなる。女方は、年ごろの御本意なれば、思しとどこほることなくて、年のうちにありぬべかなり。
宮はしぶしぶに思して、内裏わたりにも、ただ好きがましきことに御心を入れて、帝后の御戒めに静まりたまふべくもあらざめり。
わが殿こそ、なほあやしく人に似たまはず、あまりまめにおはしまして、人にはもて悩まれたまへ。ここにかく渡りたまふのみなむ、目もあやに、おぼろけならぬこと、と人申す」
など語りけるを、「さこそ言ひつれ」など、人びとの中にて語るを聞きたまふに、いとど胸ふたがりて、
「今は限りにこそあなれ。やむごとなき方に定まりたまはぬ、なほざりの御すさびに、かくまで思しけむを、さすがに中納言などの思はむところを思して、言の葉の限り深きなりけり」
と思ひなしたまふに、ともかくも人の御つらさは思ひ知らず、いとど身の置き所のなき心地して、しをれ臥したまへり。
弱き御心地は、いとど世に立ちとまるべくもおぼえず。恥づかしげなる人びとにはあらねど、思ふらむところの苦しければ、聞かぬやうにて寝たまへるを、中の君、もの思ふ時のわざと聞きし、うたた寝の御さまのいとらうたげにて、腕を枕にて寝たまへるに、御髪のたまりたるほどなど、ありがたくうつくしげなるを見やりつつ、親の諌めし言の葉も、かへすがへす思ひ出でられたまひて悲しければ、
「罪深かなる底には、よも沈みたまはじ。いづこにもいづこにも、おはすらむ方に迎へたまひてよ。かくいみじくもの思ふ身どもをうち捨てたまひて、夢にだに見えたまはぬよ」
と思ひ続けたまふ。
[第三段 中の君、昼寝の夢から覚める]
夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて、木の下吹き払ふ風の音などに、たとへむ方なく、来し方行く先思ひ続けられて、添ひ臥したまへるさま、あてに限りなく見えたまふ。
白き御衣に、髪は削ることもしたまはでほど経ぬれど、まよふ筋なくうちやられて、日ごろにすこし青みたまへるしも、なまめかしさまさりて、眺め出だしたまへるまみ、額つきのほども、見知らむ人に見せまほし。
昼寝の君、風のいと荒きに驚かされて起き上がりたまへり。山吹、薄色などはなやかなる色あひに、御顔はことさらに染め匂はしたらむやうに、いとをかしくはなばなとして、いささかもの思ふべきさまもしたまへらず。
「故宮の夢に見えたまひつる、いともの思したるけしきにて、このわたりにこそ、ほのめきたまひつれ」
と語りたまへば、いとどしく悲しさ添ひて、
「亡せたまひて後、いかで夢にも見たてまつらむと思ふを、さらにこそ、見たてまつらね」
とて、二所ながらいみじく泣きたまふ。
「このころ明け暮れ思ひ出でたてまつれば、ほのめきもやおはすらむ。いかで、おはすらむ所に尋ね参らむ。罪深げなる身どもにて」
と、後の世をさへ思ひやりたまふ。人の国にありけむ香の煙ぞ、いと得まほしく思さるる。
[第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く]
いと暗くなるほどに、宮より御使あり。折は、すこしもの思ひ慰みぬべし。御方はとみにも見たまはず。
「なほ、心うつくしくおいらかなるさまに聞こえたまへ。かくてはかなくもなりはべりなば、これより名残なき方にもてなしきこゆる人もや出で来む、とうしろめたきを。まれにも、この人の思ひ出できこえたまはむに、さやうなるあるまじき心つかふ人は、えあらじと思へば、つらきながらなむ頼まれはべる」
と聞こえたまへば、
「後らさむと思しけるこそ、いみじくはべれ」
と、いよいよ顔を引き入れたまふ。
「限りあれば、片時もとまらじと思ひしかど、ながらふるわざなりけり、と思ひはべるぞや。明日知らぬ世の、さすがに嘆かしきも、誰がため惜しき命にかは」
とて、大殿油参らせて見たまふ。
例の、こまやかに書きたまひて、
「眺むるは同じ雲居をいかなれば
おぼつかなさを添ふる時雨ぞ」
「かく袖ひつる」などいふこともやありけむ、耳馴れにたるを、なほあらじことと見るにつけても、恨めしさまさりたまふ。さばかり世にありがたき御ありさま容貌を、いとど、いかで人にめでられむと、好ましく艶にもてなしたまへれば、若き人の心寄せたてまつりたまはむ、ことわりなり。
ほど経るにつけても恋しく、「さばかり所狭きまで契りおきたまひしを、さりとも、いとかくてはやまじ」と思ひ直す心ぞ、常に添ひける。御返り、「今宵参りなむ」と聞こゆれば、これかれそそのかしきこゆれば、ただ一言なむ、
「霰降る深山の里は朝夕に
眺むる空もかきくらしつつ」
かく言ふは、神無月の晦日なりけり。「月も隔たりぬるよ」と、宮は静心なく思されて、「今宵、今宵」と思しつつ、障り多みなるほどに、五節などとく出で来たる年にて、内裏わたり今めかしく紛れがちにて、わざともなけれど過ぐいたまふほどに、あさましく待ち遠なり。はかなく人を見たまふにつけても、さるは御心に離るる折なし。左の大殿のわたりのこと、大宮も、
「なほ、さるのどやかなる御後見をまうけたまひて、そのほかに尋ねまほしく思さるる人あらば、参らせて、重々しくもてなしたまへ」
と聞こえたまへど、
「しばし。さ思うたまふるやうなむ」
聞こえいなびたまひて、「まことにつらき目はいかでか見せむ」など思す御心を知りたまはねば、月日に添へてものをのみ思す。
[第五段 薫、大君を見舞う]
中納言も、「見しほどよりは軽びたる御心かな。さりとも」と思ひきこえけるも、いとほしく、心からおぼえつつ、をさをさ参りたまはず。
山里には、「いかに、いかに」と、訪らひきこえたまふ。「この月となりては、すこしよろしくおはす」と聞きたまひけるに、公私もの騒がしきころにて、五、六日、人もたてまつれたまはぬに、「いかならむ」と、うちおどろかれたまひて、わりなきことのしげさをうち捨てて参でたまふ。
「修法はおこたり果てたまふまで」とのたまひおきけるを、よろしくなりにけりとて、阿闍梨をも帰したまひければ、いと人ずくなにて、例の、老い人出で来て、御ありさま聞こゆ。
「そこはかと痛きところもなく、おどろおどろしからぬ御悩みに、ものをなむさらに聞こしめさぬ。もとより、人に似たまはず、あえかにおはしますうちに、この宮の御こと出で来にしのち、いとどもの思したるさまにて、はかなき御くだものをだに御覧じ入れざりし積もりにや、あさましく弱くなりたまひて、さらに頼むべくも見えたまはず。よに心憂くはべりける身の命の長さにて、かかることを見たてまつれば、まづいかで先立ちきこえむと思ひたまへ入りはべり」
と、言ひもやらず泣くさま、ことわりなり。
「心憂く、などか、かくとも告げたまはざりける。院にも内裏にも、あさましく事しげきころにて、日ごろもえ聞こえざりつるおぼつかなさ」
とて、ありし方に入りたまふ。御枕上近くてもの聞こえたまへど、御声もなきやうにて、えいらへたまはず。
「かく重くなりたまふまで、誰も誰も告げたまはざりけるが、つらくも。思ふにかひなきこと」
と恨みて、例の阿闍梨、おほかた世に験ありと聞こゆる人の限り、あまた請じたまふ。御修法、読経、明くる日より始めさせたまはむとて、殿人あまた参り集ひ、上下の人立ち騷ぎたれば、心細さの名残なく頼もしげなり。
[第六段 薫、大君を看護する]
暮れぬれば、「例の、あなたに」と聞こえて、御湯漬けなど参らむとすれど、「近くてだに見たてまつらむ」とて、南の廂は僧の座なれば、東面の今すこし気近き方に、屏風など立てさせて入りゐたまふ。
中の宮、苦しと思したれど、この御仲を、「なほ、もてはなれたまはぬなりけり」と皆思ひて、疎くもえもてなし隔てず。初夜よりはじめて、法華経を不断に読ませたまふ。声尊き限り十二人して、いと尊し。
灯はこなたの南の間にともして、内は暗きに、几帳をひき上げて、すこしすべり入りて見たてまつりたまへば、老人ども二、三人ぞさぶらふ。中の宮は、ふと隠れたまひぬれば、いと人少なに、心細くて臥したまへるを、
「などか、御声をだに聞かせたまはぬ」
とて、御手を捉へておどろかしきこえたまへば、
「心地には思ひながら、もの言ふがいと苦しくてなむ。日ごろおとづれたまはざりつれば、おぼつかなくて過ぎはべりぬべきにやと、口惜しくこそはべりつれ」
と、息の下にのたまふ。
「かく待たれたてまつるほどまで参り来ざりけること」
とて、さくりもよよと泣きたまふ。御ぐしなど、すこし熱くぞおはしける。
「何の罪なる御心地にか。人に嘆き負ふこそ、かくあむなれ」
と、御耳にさし当てて、ものを多く聞こえたまへば、うるさうも恥づかしうもおぼえて、顔をふたぎたまへるを、むなしく見なしていかなる心地せむ、と胸もひしげておぼゆ。
「日ごろ見たてまつりたまひつらむ御心地も、やすからず思されつらむ。今宵だに、心やすくうち休ませたまへ。宿直人さぶらふべし」
と聞こえたまへば、うしろめたけれど、「さるやうこそは」と思して、すこししぞきたまへり。
直面にはあらねど、はひ寄りつつ見たてまつりたまへば、いと苦しく恥づかしけれど、「かかるべき契りこそはありけめ」と思して、こよなうのどかにうしろやすき御心を、かの片つ方の人に見比べたてまつりたまへば、あはれとも思ひ知られにたり。
「むなしくなりなむ後の思ひ出にも、心ごはく、思ひ隈なからじ」とつつみたまひて、はしたなくもえおし放ちたまはず。夜もすがら、人をそそのかして、御湯など参らせたてまつりたまへど、つゆばかり参るけしきもなし。「いみじのわざや。いかにしてかは、かけとどむべき」と、言はむかたなく思ひゐたまへり。
[第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る]
不断経の、暁方のゐ替はりたる声のいと尊きに、阿闍梨も夜居にさぶらひて眠りたる、うちおどろきて陀羅尼読む。老いかれにたれど、いと功づきて頼もしう聞こゆ。
「いかが今宵はおはしましつらむ」
など聞こゆるついでに、故宮の御ことなど申し出でて、鼻しばしばうちかみて、
「いかなる所におはしますらむ。さりとも、涼しき方にぞ、と思ひやりたてまつるを、先つころの夢になむ見えおはしましし。
俗の御かたちにて、『世の中を深う厭ひ離れしかば、心とまることなかりしを、いささかうち思ひしことに乱れてなむ、ただしばし願ひの所を隔たれるを思ふなむ、いと悔しき。すすむるわざせよ』と、いとさだかに仰せられしを、たちまちに仕うまつるべきことのおぼえはべらねば、堪へたるにしたがひて、行ひしはべる法師ばら五、六人して、なにがしの念仏なむ仕うまつらせはべる。
さては、思ひたまへ得たることはべりて、常不軽をなむつかせはべる」
など申すに、君もいみじう泣きたまふ。かの世にさへ妨げきこゆらむ罪のほどを、苦しき御心地にも、いとど消え入りぬばかりおぼえたまふ。
「いかで、かのまだ定まりたまはざらむさきに参でて、同じ所にも」
と、聞き臥したまへり。
阿闍梨は言少なにて立ちぬ。この常不軽、そのわたりの里々、京までありきけるを、暁の嵐にわびて、阿闍梨のさぶらふあたりを尋ねて、中門のもとにゐて、いと尊くつく。回向の末つ方の心ばへいとあはれなり。客人もこなたにすすみたる御心にて、あはれ忍ばれたまはず。
中の宮、切におぼつかなくて、奥の方なる几帳のうしろに寄りたまへるけはひを聞きたまひて、あざやかにゐなほりたまひて、
「不軽の声はいかが聞かせたまひつらむ。重々しき道には行はぬことなれど、尊くこそはべりけれ」とて、
「霜さゆる汀の千鳥うちわびて
鳴く音悲しき朝ぼらけかな」
言葉のやうに聞こえたまふ。つれなき人の御けはひにも通ひて、思ひよそへらるれど、いらへにくくて、弁してぞ聞こえたまふ。
「暁の霜うち払ひ鳴く千鳥
もの思ふ人の心をや知る」
似つかはしからぬ御代りなれど、ゆゑなからず聞こえなす。かやうのはかなしごとも、つつましげなるものから、なつかしうかひあるさまにとりなしたまふものを、「今はとて別れなば、いかなる心地せむ」と惑ひたまふ。
[第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う]
宮の夢に見えたまひけむさま思しあはするに、「かう心苦しき御ありさまどもを、天翔りてもいかに見たまふらむ」と推し量られて、おはしましし御寺にも、御誦経せさせたまふ。所々の祈りの使出だしたてさせたまひ、公にも私にも、御暇のよし申したまひて、祭祓、よろづにいたらぬことなくしたまへど、ものの罪めきたる御病にもあらざりければ、何の験も見えず。
みづからも、平らかにあらむとも、仏をも念じたまはばこそあらめ、
「なほ、かかるついでにいかで亡せなむ。この君のかく添ひて、残りなくなりぬるを、今はもて離れむかたなし。さりとて、かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見劣りして、我も人も見えむが、心やすからず憂かるべきこと。もし命しひてとまらば、病にことつけて、形をも変へてむ。さてのみこそ、長き心をもかたみに見果つべきわざなれ」
と思ひしみたまひて、
「とあるにても、かかるにても、いかでこの思ふことしてむ」と思すを、さまでさかしきことはえうち出でたまはで、中の宮に、
「心地のいよいよ頼もしげなくおぼゆるを、忌むことなむ、いとしるしありて命延ぶることと聞きしを、さやうに阿闍梨にのたまへ」
と聞こえたまへば、皆泣き騷ぎて、
「いとあるまじき御ことなり。かくばかり思し惑ふめる中納言殿も、いかがあへなきやうに思ひきこえたまはむ」
と、似げなきことに思ひて、頼もし人にも申しつがねば、口惜しう思す。
かく籠もりゐたまひつれば、聞きつぎつつ、御訪らひにふりはへものしたまふ人もあり。おろかに思されぬこと、と見たまへば、殿人、親しき家司などは、おのおのよろづの御祈りをせさせ、嘆ききこゆ。
豊明は今日ぞかしと、京思ひやりたまふ。風いたう吹きて、雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ。「都にはいとかうしもあらじかし」と、人やりならず心細うて、「疎くてやみぬべきにや」と思ふ契りはつらけれど、恨むべうもあらず。なつかしうらうたげなる御もてなしを、ただしばしにても例になして、「思ひつることどもも語らはばや」と思ひ続けて眺めたまふ。光もなくて暮れ果てぬ。
「かき曇り日かげも見えぬ奥山に
心をくらすころにもあるかな」
[第九段 薫、大君に寄り添う]
ただ、かくておはするを頼みに、皆思ひきこえたり。例の、近き方にゐたまへるに、御几帳などを、風のあらはに吹きなせば、中の宮、奥に入りたまふ。見苦しげなる人びとも、かかやき隠れぬるほどに、いと近う寄りて、
「いかが思さるる。心地に思ひ残すことなく、念じきこゆるかひなく、御声をだに聞かずなりにたれば、いとこそわびしけれ。後らかしたまはば、いみじうつらからむ」
と、泣く泣く聞こえたまふ。ものおぼえずなりにたるさまなれど、顔はいとよく隠したまへり。
「よろしき隙あらば、聞こえまほしきこともはべれど、ただ消え入るやうにのみなりゆくは、口惜しきわざにこそ」
と、いとあはれと思ひたまへるけしきなるに、いよいよせきとどめがたくて、ゆゆしう、かく心細げに思ふとは見えじと、つつみたまへど、声も惜しまれず。
「いかなる契りにて、限りなく思ひきこえながら、つらきこと多くて別れたてまつるべきにか。少し憂きさまをだに見せたまはばなむ、思ひ冷ますふしにもせむ」
とまもれど、いよいよあはれげにあたらしく、をかしき御ありさまのみ見ゆ。
腕などもいと細うなりて、影のやうに弱げなるものから、色あひも変らず、白ううつくしげになよなよとして、白き御衣どものなよびかなるに、衾を押しやりて、中に身もなき雛を臥せたらむ心地して、御髪はいとこちたうもあらぬほどにうちやられたる、枕より落ちたる際の、つやつやとめでたうをかしげなるも、「いかになりたまひなむとするぞ」と、あるべきものにもあらざめりと見るが、惜しきことたぐひなし。
ここら久しく悩みて、ひきもつくろはぬけはひの、心とけず恥づかしげに、限りなうもてなしさまよふ人にも多うまさりて、こまかに見るままに、魂も静まらむ方なし。
第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆
[第一段 大君、もの隠れゆくように死す]
「つひにうち捨てたまひなば、世にしばしもとまるべきにもあらず。命もし限りありてとまるべうとも、深き山にさすらへなむとす。ただ、いと心苦しうて、とまりたまはむ御ことをなむ思ひきこゆる」
と、いらへさせたてまつらむとて、かの御ことをかけたまへば、顔隠したまへる御袖を少しひき直して、
「かく、はかなかりけるものを、思ひ隈なきやうに思されたりつるもかひなければ、このとまりたまはむ人を、同じこと思ひきこえたまへと、ほのめかしきこえしに、違へたまはざらましかば、うしろやすからましと、これのみなむ恨めしきふしにて、とまりぬべうおぼえはべる」
とのたまへば、
「かくいみじう、もの思ふべき身にやありけむ。いかにも、いかにも、異ざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべらざりつれば、御おもむけに従ひきこえずなりにし。今なむ、悔しく心苦しうもおぼゆる。されども、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」
などこしらへて、いと苦しげにしたまへば、修法の阿闍梨ども召し入れさせ、さまざまに験ある限りして、加持参らせさせたまふ。我も仏を念ぜさせたまふこと、限りなし。
「世の中をことさらに厭ひ離れね、と勧めたまふ仏などの、いとかくいみじきものは思はせたまふにやあらむ。見るままにもの隠れゆくやうにて消え果てたまひぬるは、いみじきわざかな」
引きとどむべき方なく、足摺りもしつべく、人のかたくなしと見むこともおぼえず。限りと見たてまつりたまひて、中の宮の、後れじと思ひ惑ひたまふさまもことわりなり。あるにもあらず見えたまふを、例の、さかしき女ばら、「今は、いとゆゆしきこと」と、引き避けたてまつる。
[第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり]
中納言の君は、さりとも、いとかかることあらじ、夢か、と思して、御殿油を近うかかげて見たてまつりたまふに、隠したまふ顔も、ただ寝たまへるやうにて、変はりたまへるところもなく、うつくしげにてうち臥したまへるを、「かくながら、虫の殻のやうにても見るわざならましかば」と、思ひ惑はる。
今はの事どもするに、御髪をかきやるに、さとうち匂ひたる、ただありしながらの匂ひに、なつかしう香ばしきも、
「ありがたう、何ごとにてこの人を、すこしもなのめなりしと思ひさまさむ。まことに世の中を思ひ捨て果つるしるべならば、恐ろしげに憂きことの、悲しさも冷めぬべきふしをだに見つけさせたまへ」
と仏を念じたまへど、いとど思ひのどめむ方なくのみあれば、言ふかひなくて、「ひたぶるに煙にだになし果ててむ」と思ほして、とかく例の作法どもするぞ、あさましかりける。
空を歩むやうにただよひつつ、限りのありさまさへはかなげにて、煙も多くむすぼほれたまはずなりぬるもあへなしと、あきれて帰りたまひぬ。
御忌に籠もれる人数多くて、心細さはすこし紛れぬべけれど、中の宮は、人の見思はむことも恥づかしき身の心憂さを思ひ沈みたまひて、また亡き人に見えたまふ。
宮よりも御弔らひいとしげくたてまつれたまふ。思はずにつくづくと思ひきこえたまへりしけしきも、思し直らでやみぬるを思すに、いと憂き人の御ゆかりなり。
中納言、かく世のいと心憂くおぼゆるついでに、本意遂げむと思さるれど、三条の宮の思されむことに憚り、この君の御ことの心苦しさとに思ひ乱れて、
「かののたまひしやうにて、形見にも見るべかりけるものを。下の心は、身を分けたまへりとも、移ろふべくもおぼえ給へざりしを、かうもの思はせたてまつるよりは、ただうち語らひて、尽きせぬ慰めにも見たてまつり通はましものを」
など思す。
かりそめに京にも出でたまはず、かき絶え、慰む方なくて籠もりおはするを、世人も、おろかならず思ひたまへること、と見聞きて、内裏よりはじめたてまつりて、御弔ひ多かり。
[第三段 七日毎の法事と薫の悲嘆]
はかなくて日ごろは過ぎゆく。七日七日の事ども、いと尊くせさせたまひつつ、おろかならず孝じたまへど、限りあれば、御衣の色の変らぬを、かの御方の心寄せわきたりし人びとの、いと黒く着替へたるを、ほの見たまふも、
「くれなゐに落つる涙もかひなきは
形見の色を染めぬなりけり」
聴し色の氷解けぬかと見ゆるを、いとど濡らし添へつつ眺めたまふさま、いとなまめかしくきよげなり。人びと覗きつつ見たてまつりて、
「言ふかひなき御ことをばさるものにて、この殿のかくならひたてまつりて、今はとよそに思ひきこえむこそ、あたらしく口惜しけれ」
「思ひの外なる御宿世にもおはしけるかな。かく深き御心のほどを、かたがたに背かせたまへるよ」
と泣きあへり。
この御方には、
「昔の御形見に、今は何ごとも聞こえ、承らむとなむ思ひたまふる。疎々しく思し隔つな」
と聞こえたまへど、「よろづのこと憂き身なりけり」と、もののみつつましくて、まだ対面してものなど聞こえたまはず。
「この君は、けざやかなるかたに、いますこし子めき、気高くおはするものから、なつかしく匂ひある心ざまぞ、劣りたまへりける」
と、事に触れておぼゆ。
[第四段 雪の降る日、薫、大君を思う]
雪のかきくらし降る日、終日にながめ暮らして、世の人のすさまじきことに言ふなる師走の月夜の、曇りなくさし出でたるを、簾巻き上げて見たまへば、向かひの寺の鐘の声、枕をそばだてて、今日も暮れぬと、かすかなる響を聞きて、
「おくれじと空ゆく月を慕ふかな
つひに住むべきこの世ならねば」
風のいと烈しければ、蔀下ろさせたまふに、四方の山の鏡と見ゆる汀の氷、月影にいとおもしろし。「京の家の限りなくと磨くも、えかうはあらぬはや」とおぼゆ。「わづかに生き出でてものしたまはましかば、もろともに聞こえまし」と思ひつづくるぞ、胸よりあまる心地する。
「恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに
雪の山にや跡を消なまし」
「半ばなる偈教へむ鬼もがな、ことつけて身も投げむ」と思すぞ、心ぎたなき聖心なりける。
人びと近く呼び出でたまひて、物語などせさせたまふけはひなどの、いとあらまほしくのどやかに心深きを、見たてまつる人びと、若きは、心にしめてめでたしと思ひたてまつる。老いたるは、ただ口惜しくいみじきことを、いとど思ふ。
「御心地の重くならせたまひしことも、ただこの宮の御ことを、思はずに見たてまつりたまひて、人笑へにいみじと思すめりしを、さすがにかの御方には、かく思ふと知られたてまつらじと、ただ御心一つに世を恨みたまふめりしほどに、はかなき御くだものをも聞こしめし触れず、ただ弱りになむ弱らせたまふめりし。
上べには、何ばかりことことしくもの深げにももてなさせたまはで、下の御心の限りなく、何事も思すめりしに、故宮の御戒めにさへ違ひぬることと、あいなう人の御上を思し悩みそめしなり」
と聞こえて、折々のたまひしことなど語り出でつつ、誰も誰も泣き惑ふこと尽きせず。
[第五段 匂宮、雪の中、宇治へ弔問]
「わが心から、あぢきなきことを思はせたてまつりけむこと」と取り返さまほしく、なべての世もつらきに、念誦をいとどあはれにしたまひて、まどろむほどなく明かしたまふに、まだ夜深きほどの雪のけはひ、いと寒げなるに、人びと声あまたして、馬の音聞こゆ。
「何人かは、かかるさ夜中に雪を分くべき」
と、大徳たちも驚き思へるに、宮、狩の御衣にいたうやつれて、濡れ濡れ入りたまへるなりけり。うちたたきたまふさま、さななり、と聞きたまひて、中納言は、隠ろへたる方に入りたまひて、忍びておはす。御忌は日数残りたりけれど、心もとなく思しわびて、夜一夜、雪に惑はされてぞおはしましける。
日ごろのつらさも紛れぬべきほどなれど、対面したまふべき心地もせず、思し嘆きたるさまの恥づかしかりしを、やがて見直されたまはずなりにしも、今より後の御心改まらむは、かひなかるべく思ひしみてものしたまへば、誰も誰もいみじうことわりを聞こえ知らせつつ、物越しにてぞ、日ごろのおこたり尽きせずのたまふを、つくづくと聞きゐたまへる。
これもいとあるかなきかにて、「後れたまふまじきにや」と聞こゆる御けはひの心苦しさを、「うしろめたういみじ」と、宮も思したり。
今日は、御身を捨てて、泊りたまひぬ。「物越しならで」といたくわびたまへど、
「今すこしものおぼゆるほどまではべらば」
とのみ聞こえたまひて、つれなきを、中納言もけしき聞きたまひて、さるべき人召し出でて、
「御ありさまに違ひて、心浅きやうなる御もてなしの、昔も今も心憂かりける月ごろの罪は、さも思ひきこえたまひぬべきことなれど、憎からぬさまにこそ、勘へたてまつりたまはめ。かやうなること、まだ見知らぬ御心にて、苦しう思すらむ」
など、忍びて賢しがりたまへば、いよいよこの君の御心も恥づかしくて、え聞こえたまはず。
「あさましく心憂くおはしけり。聞こえしさまをも、むげに忘れたまひけること」
と、おろかならず嘆き暮らしたまへり。
[第六段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す]
夜のけしき、いとど険しき風の音に、人やりならず嘆き臥したまへるも、さすがにて、例の、もの隔てて聞こえたまふ。千々の社をひきかけて、行く先長きことを契りきこえたまふも、「いかでかく口馴れたまひけむ」と、心憂けれど、よそにてつれなきほどの疎ましさよりはあはれに、人の心もたをやぎぬべき御さまを、一方にもえ疎み果つまじかりけり。ただ、つくづくと聞きて、
「来し方を思ひ出づるもはかなきを
行く末かけてなに頼むらむ」
と、ほのかにのたまふ。なかなかいぶせう、心もとなし。
「行く末を短きものと思ひなば
目の前にだに背かざらなむ
何事もいとかう見るほどなき世を、罪深くな思しないそ」
と、よろづにこしらへたまへど、
「心地も悩ましくなむ」
とて入りたまひにけり。人の見るらむもいと人悪ろくて、嘆き明かしたまふ。恨みむもことわりなるほどなれど、あまりに人憎くもと、つらき涙の落つれば、「ましていかに思ひつらむ」と、さまざまあはれに思し知らる。
中納言の、主人方に住み馴れて、人びとやすらかに呼び使ひ、人もあまたしてもの参らせなどしたまふを、あはれにもをかしうも御覧ず。いといたう痩せ青みて、ほれぼれしきまでものを思ひたれば、心苦しと見たまひて、まめやかに訪らひたまふ。
「ありしさまなど、かひなきことなれど、この宮にこそは聞こえめ」と思へど、うち出でむにつけても、いと心弱く、かたくなしく見えたてまつらむに憚りて、言少ななり。音をのみ泣きて、日数経にければ、顔変はりのしたるも、見苦しくはあらで、いよいよものきよげになまめいたるを、「女ならば、かならず心移りなむ」と、おのがけしからぬ御心ならひに思しよるも、なまうしろめたかりければ、「いかで人のそしりも恨みをもはぶきて、京に移ろはしてむ」と思す。
かくつれなきものから、内裏わたりにも聞こし召して、いと悪しかるべきに思しわびて、今日は帰らせたまひぬ。おろかならず言の葉を尽くしたまへど、つれなきは苦しきものをと、一節を思し知らせまほしくて、心とけずなりぬ。
[第七段 歳暮に薫、宇治から帰京]
年暮れ方には、かからぬ所だに、空のけしき例には似ぬを、荒れぬ日なく降り積む雪に、うち眺めつつ明かし暮らしたまふ心地、尽きせず夢のやうなり。
宮よりも、御誦経など、こちたきまで訪らひきこえたまふ。かくてのみやは、新しき年さへ嘆き過ぐさむ。ここかしこにも、おぼつかなくて閉ぢ籠もりたまへることを聞こえたまへば、今はとて帰りたまはむ心地も、たとへむ方なし。
かくおはしならひて、人しげかりつる名残なくならむを、思ひわぶる人びと、いみじかりし折のさしあたりて悲しかりし騷ぎよりも、うち静まりていみじくおぼゆ。
「時々、折ふし、をかしやかなるほどに聞こえ交はしたまひし年ごろよりも、かくのどやかにて過ぐしたまへる日ごろの御ありさまけはひの、なつかしく情け深う、はかなきことにもまめなる方にも、思ひやり多かる御心ばへを、今は限りに見たてまつりさしつること」
と、おぼほれあへり。
かの宮よりは、
「なほ、かう参り来ることもいと難きを思ひわびて、近う渡いたてまつるべきことをなむ、たばかり出でたる」
と聞こえたまへり。后の宮、聞こし召しつけて、
「中納言もかくおろかならず思ひほれてゐたなるは、げに、おしなべて思ひがたうこそは、誰も思さるらめ」と、心苦しがりたまひて、「二条院の西の対に渡いたまて、時々も通ひたまふべく、忍びて聞こえたまひけるは、女一の宮の御方にことよせて思しなるにや」
と思しながら、おぼつかなかるまじきはうれしくて、のたまふなりけり。
「さななり」と、中納言も聞きたまひて、
「三条宮も造り果てて、渡いたてまつらむことを思ひしものを。かの御代りになずらへて見るべかりけるを」
など、ひき返し心細し。宮の思し寄るめりし筋は、いと似げなきことに思ひ離れて、「おほかたの御後見は、我ならでは、また誰かは」と、思すとや。