03 紅葉賀・花宴・葵

2020-02-29

紅葉賀

第一章 藤壺の物語 源氏 藤壺の御前で青海波を舞う
 [第一段 御前の試楽]

 朱雀院の行幸は 神無月の十日あまりなり 世の常ならず おもしろかるべきたびのことなりければ 御方々 物見たまはぬことを口惜しがりたまふ 主上も 藤壺の見たまはざらむを 飽かず思さるれば 試楽を御前にて せさせたまふ 

 源氏中将は 青海波をぞ舞ひたまひける 片手には大殿の頭中将 容貌 用意 人にはことなるを 立ち並びては なほ花のかたはらの深山木なり 

 入り方の日かげ さやかにさしたるに 楽の声まさり もののおもしろきほどに 同じ舞の足踏み おももち 世に見えぬさまなり 詠などしたまへるは これや 仏の御迦陵頻伽の声ならむ と聞こゆ おもしろくあはれなるに 帝 涙を拭ひたまひ 上達部 親王たちも みな泣きたまひぬ 詠はてて 袖うちなほしたまへるに 待ちとりたる楽のにぎははしきに 顔の色あひまさりて 常よりも光ると見えたまふ 

 春宮の女御 かくめでたきにつけても ただならず思して 神など 空にめでつべき容貌かな うたてゆゆし とのたまふを 若き女房などは 心憂しと耳とどめけり 藤壺は おほけなき心のなからましかば ましてめでたく見えまし と思すに 夢の心地なむしたまひける 

 宮は やがて御宿直なりけり 
 今日の試楽は 青海波に事みな尽きぬな いかが見たまひつる 
 と 聞こえたまへば あいなう 御いらへ聞こえにくくて 
 殊にはべりつ とばかり聞こえたまふ 
 片手もけしうはあらずこそ見えつれ 舞のさま 手づかひなむ 家の子は殊なる この世に名を得たる舞の男どもも げにいとかしこけれど ここしうなまめいたる筋を えなむ見せぬ 試みの日 かく尽くしつれば 紅葉の蔭やさうざうしくと思へど 見せたてまつらむの心にて 用意せさせつる など聞こえたまふ 

 [第二段 試楽の翌日 源氏藤壺と和歌を贈答]

 つとめて 中将君 
 いかに御覧じけむ 世に知らぬ乱り心地ながらこそ 

 もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の
 袖うち振りし心知りきや

 あなかしこ 
 とある御返り 目もあやなりし御さま 容貌に 見たまひ忍ばれずやありけむ 

 唐人の袖振ることは遠けれど
 立ち居につけてあはれとは見き

 大方には 
 とあるを 限りなうめづらしう かやうの方さへ たどたどしからず ひとの朝廷まで思ほしやれる御后言葉の かねても と ほほ笑まれて 持経のやうにひき広げて見ゐたまへり 

 [第三段 十月十余日 朱雀院へ行幸]

 行幸には 親王たちなど 世に残る人なく仕うまつりたまへり 春宮もおはします 例の 楽の舟ども漕ぎめぐりて 唐土 高麗と 尽くしたる舞ども 種多かり 楽の声 鼓の音 世を響かす 

 一日の源氏の御夕影 ゆゆしう思されて 御誦経など所々にせさせたまふを 聞く人もことわりとあはれがり聞こゆるに 春宮の女御は あながちなりと 憎みきこえたまふ 

 垣代など 殿上人 地下も 心殊なりと世人に思はれたる有職の限りととのへさせたまへり 宰相二人 左衛門督 右衛門督 左右の楽のこと行ふ 舞の師どもなど 世になべてならぬを取りつつ おのおの籠りゐてなむ習ひける 

 木高き紅葉の蔭に 四十人の垣代 言ひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風 まことの深山おろしと聞こえて吹きまよひ 色々に散り交ふ木の葉のなかより 青海波のかかやき出でたるさま いと恐ろしきまで見ゆ かざしの紅葉いたう散り空きて 顔のにほひにけおされたる心地すれば 御前なる菊を折りて 左大将さし替へたまふ 

 日暮れかかるほどに けしきばかりうちしぐれて 空のけしきさへ見知り顔なるに さるいみじき姿に 菊の色々移ろひ えならぬをかざして 今日はまたなき手を尽くしたる入綾のほど そぞろ寒く この世のことともおぼえず もの見知るまじき下人などの 木のもと 岩隠れ 山の木の葉に埋もれたるさへ すこしものの心知るは涙落としけり 

 承香殿の御腹の四の御子 まだ童にて 秋風楽舞ひたまへるなむ さしつぎの見物なりける これらにおもしろさの尽きにければ こと事に目も移らず かへりてはことざましにやありけむ 

 その夜 源氏中将 正三位したまふ 頭中将 正下の加階したまふ 上達部は 皆さるべき限りよろこびしたまふも この君にひかれたまへるなれば 人の目をもおどろかし 心をもよろこばせたまふ 昔の世ゆかしげなり 

 [第四段 葵の上 源氏の態度を不快に思う]

 宮は そのころまかでたまひぬれば 例の 隙もやとうかがひありきたまふをことにて 大殿には騒がれたまふ いとど かの若草たづね取りたまひてしを 二条院には人迎へたまふなり と人の聞こえければ いと心づきなしと思いたり 

 うちうちのありさまは知りたまはず さも思さむはことわりなれど 心うつくしく 例の人のやうに怨みのたまはば 我もうらなくうち語りて 慰めきこえてむものを 思はずにのみとりないたまふ心づきなさに さもあるまじきすさびごとも出で来るぞかし 人の御ありさまの かたほに そのことの飽かぬとおぼゆる疵もなし 人よりさきに見たてまつりそめてしかば あはれにやむごとなく思ひきこゆる心をも 知りたまはぬほどこそあらめ つひには思し直されなむ と おだしく軽々しからぬ御心のほども おのづから と 頼まるる方はことなりけり 

 

第二章 紫の物語 源氏 紫の君に心慰める
 [第一段 紫の君 源氏を慕う]

 幼き人は 見ついたまふままに いとよき心ざま 容貌にて 何心もなくむつれまとはしきこえたまふ しばし 殿の内の人にも誰れと知らせじ と思して なほ離れたる対に 御しつらひ二なくして 我も明け暮れ入りおはして よろづの御ことどもを教へきこえたまひ 手本書きて習はせなどしつつ ただほかなりける御むすめを迎へたまへらむやうにぞ思したる 

 政所 家司などをはじめ ことに分かちて 心もとなからず仕うまつらせたまふ 惟光よりほかの人は おぼつかなくのみ思ひきこえたり かの父宮も え知りきこえたまはざりけり 

 姫君は なほ時々思ひ出できこえたまふ時 尼君を恋ひきこえたまふ折多かり 君のおはするほどは 紛らはしたまふを 夜などは 時々こそ泊まりたまへ ここかしこの御いとまなくて 暮るれば出でたまふを 慕ひきこえたまふ折などあるを いとらうたく思ひきこえたまへり 

 二 三日内裏にさぶらひ 大殿にもおはする折は いといたく屈しなどしたまへば 心苦しうて 母なき子持たらむ心地して 歩きも静心なくおぼえたまふ 僧都は かくなむ と聞きたまひて あやしきものから うれしとなむ思ほしける かの御法事などしたまふにも いかめしうとぶらひきこえたまへり 

 [第二段 藤壺の三条宮邸に見舞う]

 藤壺のまかでたまへる三条の宮に 御ありさまもゆかしうて 参りたまへれば 命婦 中納言の君 中務などやうの人びと対面したり けざやかにももてなしたまふかな と やすからず思へど しづめて 大方の御物語聞こえたまふほどに 兵部卿宮参りたまへり 

 この君おはすと聞きたまひて 対面したまへり いとよしあるさまして 色めかしうなよびたまへるを 女にて見むはをかしかりぬべく 人知れず見たてまつりたまふにも かたがたむつましくおぼえたまひて こまやかに御物語など聞こえたまふ 宮も この御さまの常よりことになつかしううちとけたまへるを いとめでたし と見たてまつりたまひて 婿になどは思し寄らで 女にて見ばや と 色めきたる御心には思ほす 

 暮れぬれば 御簾の内に入りたまふを うらやましく 昔は 主上の御もてなしに いとけ近く 人づてならで ものをも聞こえたまひしを こよなう疎みたまへるも つらうおぼゆるぞわりなきや 

 しばしばもさぶらふべけれど 事ぞとはべらぬほどは おのづからおこたりはべるを さるべきことなどは 仰せ言もはべらむこそ うれしく 

 など すくすくしうて出でたまひぬ 命婦も たばかりきこえむかたなく 宮の御けしきも ありしよりは いとど憂きふしに思しおきて 心とけぬ御けしきも 恥づかしくいとほしければ 何のしるしもなくて 過ぎゆく はかなの契りや と思し乱るること かたみに尽きせず 

 [第三段 故祖母君の服喪明ける]

 少納言は おぼえずをかしき世を見るかな これも 故尼上の この御ことを思して 御行ひにも祈りきこえたまひし仏の御しるしにや とおぼゆ 大殿 いとやむごとなくておはします ここかしこあまたかかづらひたまふをぞ まことに大人びたまはむほどは むつかしきこともや とおぼえける されど かくとりわきたまへる御おぼえのほどは いと頼もしげなりかし 

 御服 母方は三月こそはとて 晦日には脱がせたてまつりたまふを また親もなくて生ひ出でたまひしかば まばゆき色にはあらで 紅 紫 山吹の地の限り織れる御小袿などを着たまへるさま いみじう今めかしくをかしげなり 

 [第四段 新年を迎える]

 男君は 朝拝に参りたまふとて さしのぞきたまへり 
 今日よりは 大人しくなりたまへりや 
 とて うち笑みたまへる いとめでたう愛敬づきたまへり いつしか 雛をし据ゑて そそきゐたまへる 三尺の御厨子一具に 品々しつらひ据ゑて また小さき屋ども作り集めて たてまつりたまへるを ところせきまで遊びひろげたまへり 

 儺やらふとて 犬君がこれをこぼちはべりにければ つくろひはべるぞ 
 とて いと大事と思いたり 
 げに いと心なき人のしわざにもはべるなるかな 今つくろはせはべらむ 今日は言忌して な泣いたまひそ 
 とて 出でたまふけしき ところせきを 人びと端に出でて見たてまつれば 姫君も立ち出でて見たてまつりたまひて 雛のなかの源氏の君つくろひ立てて 内裏に参らせなどしたまふ 

 今年だにすこし大人びさせたまへ 十にあまりぬる人は 雛遊びは忌みはべるものを かく御夫などまうけたてまつりたまひては あるべかしうしめやかにてこそ 見えたてまつらせたまはめ 御髪参るほどをだに もの憂くせさせたまふ 

 など 少納言聞こゆ 御遊びにのみ心入れたまへれば 恥づかしと思はせたてまつらむとて言へば 心のうちに 我は さは 夫まうけてけり この人びとの夫とてあるは 醜くこそあれ 我はかくをかしげに若き人をも持たりけるかな と 今ぞ思ほし知りける さはいへど 御年の数添ふしるしなめりかし かく幼き御けはひの ことに触れてしるければ 殿のうちの人びとも あやしと思ひけれど いとかう世づかぬ御添臥ならむとは思はざりけり 

 

第三章 藤壺の物語(二) 二月に男皇子を出産
 [第一段 左大臣邸に赴く]

 内裏より大殿にまかでたまへれば 例のうるはしうよそほしき御さまにて 心うつくしき御けしきもなく 苦しければ 
 今年よりだに すこし世づきて改めたまふ御心見えば いかにうれしからむ 
 など聞こえたまへど わざと人据ゑて かしづきたまふ と聞きたまひしよりは やむごとなく思し定めたることにこそは と 心のみ置かれて いとど疎く恥づかしく思さるべし しひて見知らぬやうにもてなして 乱れたる御けはひには えしも心強からず 御いらへなどうち聞こえたまへるは なほ人よりはいとことなり 

 四年ばかりがこのかみにおはすれば うち過ぐし 恥づかしげに 盛りにととのほりて見えたまふ 何ごとかはこの人の飽かぬところはものしたまふ 我が心のあまりけしからぬすさびに かく怨みられたてまつるぞかし と 思し知らる 同じ大臣と聞こゆるなかにも おぼえやむごとなくおはするが 宮腹に一人いつきかしづきたまふ御心おごり いとこよなくて すこしもおろかなるをば めざまし と思ひきこえたまへるを 男君は などかいとさしも と ならはいたまふ 御心の隔てどもなるべし 

 大臣も かく頼もしげなき御心を つらしと思ひきこえたまひながら 見たてまつりたまふ時は 恨みも忘れて かしづきいとなみきこえたまふ つとめて 出でたまふところにさしのぞきたまひて 御装束したまふに 名高き御帯 御手づから持たせてわたりたまひて 御衣のうしろひきつくろひなど 御沓を取らぬばかりにしたまふ いとあはれなり 

 これは 内宴などいふこともはべるなるを さやうの折にこそ 
 など聞こえたまへば 
 それは まされるもはべり これはただ目馴れぬさまなればなむ 
 とて しひてささせたてまつりたまふ げに よろづにかしづき立てて見たてまつりたまふに 生けるかひあり たまさかにても かからむ人を出だし入れて見むに ますことあらじ と見えたまふ 

 [第二段 二月十余日 藤壺に皇子誕生]

 参座しにとても あまた所も歩きたまはず 内裏 春宮 一院ばかり さては 藤壺の三条の宮にぞ参りたまへる 
 今日はまたことにも見えたまふかな 
 ねびたまふままに ゆゆしきまでなりまさりたまふ御ありさまかな 
 と 人びとめできこゆるを 宮 几帳の隙より ほの見たまふにつけても 思ほすことしげかりけり 

 この御ことの 師走も過ぎにしが 心もとなきに この月はさりともと 宮人も待ちきこえ 内裏にも さる御心まうけどもあり つれなくて立ちぬ 御もののけにや と 世人も聞こえ騒ぐを 宮 いとわびしう このことにより 身のいたづらになりぬべきこと と思し嘆くに 御心地もいと苦しくて悩みたまふ 

 中将君は いとど思ひあはせて 御修法など さとはなくて所々にせさせたまふ 世の中の定めなきにつけても かくはかなくてや止みなむ と 取り集めて嘆きたまふに 二月十余日のほどに 男御子生まれたまひぬれば 名残なく 内裏にも宮人も喜びきこえたまふ 

 命長くも と思ほすは心憂けれど 弘徽殿などの うけはしげにのたまふ と聞きしを むなしく聞きなしたまはましかば 人笑はれにや と思し強りてなむ やうやうすこしづつさはやいたまひける 

 主上の いつしかとゆかしげに思し召したること 限りなし かの 人知れぬ御心にも いみじう心もとなくて 人まに参りたまひて 
 主上のおぼつかながりきこえさせたまふを まづ見たてまつりて詳しく奏しはべらむ 
 と聞こえたまへど 
 むつかしげなるほどなれば 
 とて 見せたてまつりたまはぬも ことわりなり さるは いとあさましう めづらかなるまで写し取りたまへるさま 違ふべくもあらず 宮の 御心の鬼にいと苦しく 人の見たてまつるも あやしかりつるほどのあやまりを まさに人の思ひとがめじや さらぬはかなきことをだに 疵を求むる世に いかなる名のつひに漏り出づべきにか と思しつづくるに 身のみぞいと心憂き 

 命婦の君に たまさかに逢ひたまひて いみじき言どもを尽くしたまへど 何のかひあるべきにもあらず 若宮の御ことを わりなくおぼつかながりきこえたまへば 
 など かうしもあながちにのたまはすらむ 今 おのづから見たてまつらせたまひてむ 
 と聞こえながら 思へるけしき かたみにただならず かたはらいたきことなれば まほにもえのたまはで 
 いかならむ世に 人づてならで 聞こえさせむ 
 とて 泣いたまふさまぞ 心苦しき 

 いかさまに昔結べる契りにて
 この世にかかるなかの隔てぞ
 かかることこそ心得がたけれ 

 とのたまふ 
 命婦も 宮の思ほしたるさまなどを見たてまつるに えはしたなうもさし放ちきこえず 

 見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむ
 こや世の人のまどふてふ闇
 あはれに 心ゆるびなき御ことどもかな 

 と 忍びて聞こえけり 
 かくのみ言ひやる方なくて 帰りたまふものから 人のもの言ひもわづらはしきを わりなきことにのたまはせ思して 命婦をも 昔おぼいたりしやうにも うちとけむつびたまはず 人目立つまじく なだらかにもてなしたまふものから 心づきなしと思す時もあるべきを いとわびしく思ひのほかなる心地すべし 

 [第三段 藤壺 皇子を伴って四月に宮中に戻る]

 四月に内裏へ参りたまふ ほどよりは大きにおよすけたまひて やうやう起き返りなどしたまふ あさましきまで まぎれどころなき御顔つきを 思し寄らぬことにしあれば またならびなきどちは げにかよひたまへるにこそは と 思ほしけり いみじう思ほしかしづくこと 限りなし 源氏の君を 限りなきものに思し召しながら 世の人のゆるしきこゆまじかりしによりて 坊にも据ゑたてまつらずなりにしを 飽かず口惜しう ただ人にてかたじけなき御ありさま 容貌に ねびもておはするを御覧ずるままに 心苦しく思し召すを かうやむごとなき御腹に 同じ光にてさし出でたまへれば 疵なき玉 と思しかしづくに 宮はいかなるにつけても 胸のひまなく やすからずものを思ほす 

 例の 中将の君 こなたにて御遊びなどしたまふに 抱き出でたてまつらせたまひて 
 御子たち あまたあれど そこをのみなむ かかるほどより明け暮れ見し されば 思ひわたさるるにやあらむ いとよくこそおぼえたれ いと小さきほどは 皆かくのみあるわざにやあらむ 
 とて いみじくうつくしと思ひきこえさせたまへり 

 中将の君 面の色変はる心地して 恐ろしうも かたじけなくも うれしくも あはれにも かたがた移ろふ心地して 涙落ちぬべし もの語りなどして うち笑みたまへるが いとゆゆしううつくしきに わが身ながら これに似たらむはいみじういたはしうおぼえたまふぞ あながちなるや 宮は わりなくかたはらいたきに 汗も流れてぞおはしける 中将は なかなかなる心地の 乱るやうなれば まかでたまひぬ 

 わが御かたに臥したまひて 胸のやるかたなきほど過ぐして 大殿へ と思す 御前の前栽の 何となく青みわたれるなかに 常夏のはなやかに咲き出でたるを 折らせたまひて 命婦の君のもとに 書きたまふこと 多かるべし 

 よそへつつ見るに心はなぐさまで
 露けさまさる撫子の花

 花に咲かなむ と思ひたまへしも かひなき世にはべりければ 
 とあり さりぬべき隙にやありけむ 御覧ぜさせて 
 ただ塵ばかり この花びらに 
 と聞こゆるを わが御心にも ものいとあはれに思し知らるるほどにて 

 袖濡るる露のゆかりと思ふにも
 なほ疎まれぬ大和撫子 

 とばかり ほのかに書きさしたるやうなるを よろこびながらたてまつれる 例のことなれば しるしあらじかし と くづほれて眺め臥したまへるに 胸うち騒ぎて いみじくうれしきにも涙落ちぬ 

 [第四段 源氏 紫の君に心を慰める]

 つくづくと臥したるにも やるかたなき心地すれば 例の 慰めには西の対にぞ渡りたまふ 
 しどけなくうちふくだみたまへる鬢ぐき あざれたる袿姿にて 笛をなつかしう吹きすさびつつ のぞきたまへれば 女君 ありつる花の露に濡れたる心地して 添ひ臥したまへるさま うつくしうらうたげなり 愛敬こぼるるやうにて おはしながらとくも渡りたまはぬ なまうらめしかりければ 例ならず 背きたまへるなるべし 端の方についゐて 
 こちや 
 とのたまへど おどろかず 
 入りぬる磯の 
 と口ずさみて 口おほひしたまへるさま いみじうされてうつくし 
 あな 憎 かかること口馴れたまひにけりな みるめに飽くは まさなきことぞよ 
 とて 人召して 御琴取り寄せて弾かせたてまつりたまふ 
 箏の琴は 中の細緒の堪へがたきこそところせけれ 
 とて 平調におしくだして調べたまふ かき合はせばかり弾きて さしやりたまへれば え怨じ果てず いとうつくしう弾きたまふ 

 小さき御ほどに さしやりて ゆしたまふ御手つき いとうつくしければ らうたしと思して 笛吹き鳴らしつつ教へたまふ いとさとくて かたき調子どもを ただひとわたりに習ひとりたまふ 大方らうらうじうをかしき御心ばへを 思ひしことかなふ と思す 保曾呂俱世利 といふものは 名は憎けれど おもしろう吹きすさびたまへるに かき合はせ まだ若けれど 拍子違はず上手めきたり 

 大殿油参りて 絵どもなど御覧ずるに 出でたまふべし とありつれば 人びと声づくりきこえて 
 雨降りはべりぬべし 
 など言ふに 姫君 例の 心細くて屈したまへり 絵も見さして うつぶしておはすれば いとらうたくて 御髪のいとめでたくこぼれかかりたるを かき撫でて 
 他なるほどは恋しくやある 
 とのたまへば うなづきたまふ 

 我も 一日も見たてまつらぬはいと苦しうこそあれど 幼くおはするほどは 心やすく思ひきこえて まづ くねくねしく怨むる人の心破らじと思ひて むつかしければ しばしかくもありくぞ おとなしく見なしては 他へもさらに行くまじ 人の怨み負はじなど思ふも 世に長うありて 思ふさまに見えたてまつらむと思ふぞ 

 など こまごまと語らひきこえたまへば さすがに恥づかしうて ともかくもいらへきこえたまはず やがて御膝に寄りかかりて 寝入りたまひぬれば いと心苦しうて 
 今宵は出でずなりぬ 
 とのたまへば 皆立ちて 御膳などこなたに参らせたり 姫君起こしたてまつりたまひて 
 出でずなりぬ 
 と聞こえたまへば 慰みて起きたまへり もろともにものなど参る いとはかなげにすさびて 
 さらば 寝たまひねかし 
 と 危ふげに思ひたまへれば かかるを見捨てては いみじき道なりとも おもむきがたくおぼえたまふ 

 かやうに とどめられたまふ折々なども多かるを おのづから漏り聞く人 大殿に聞こえければ 
 誰れならむ いとめざましきことにもあるかな 
 今までその人とも聞こえず さやうにまつはしたはぶれなどすらむは あてやかに心にくき人にはあらじ 
 内裏わたりなどにて はかなく見たまひけむ人を ものめかしたまひて 人やとがめむと隠したまふななり 心なげにいはけて聞こゆるは 
 など さぶらふ人びとも聞こえあへり 

 内裏にも かかる人ありと聞こし召して 
 いとほしく 大臣の思ひ嘆かるなることも げに ものげなかりしほどを おほなおほなかくものしたる心を さばかりのことたどらぬほどにはあらじを などか情けなくはもてなすなるらむ 
 と のたまはすれど かしこまりたるさまにて 御いらへも聞こえたまはねば 心ゆかぬなめり と いとほしく思し召す 

 さるは 好き好きしううち乱れて この見ゆる女房にまれ またこなたかなたの人びとなど なべてならずなども見え聞こえざめるを いかなるもののくまに隠れありきて かく人にも怨みらるらむ とのたまはす 

 

第四章 源典侍の物語 老女との好色事件
 [第一段 源典侍の風評]

 帝の御年 ねびさせたまひぬれど かうやうの方 え過ぐさせたまはず 采女 女蔵人などをも 容貌 心あるをば ことにもてはやし思し召したれば よしある宮仕へ人多かるころなり はかなきことをも言ひ触れたまふには もて離るることもありがたきに 目馴るるにやあらむ げにぞ あやしう好いたまはざめる と 試みに戯れ事を聞こえかかりなどする折あれど 情けなからぬほどにうちいらへて まことには乱れたまはぬを まめやかにさうざうし と思ひきこゆる人もあり 

 年いたう老いたる典侍 人もやむごとなく 心ばせあり あてに おぼえ高くはありながら いみじうあだめいたる心ざまにて そなたには重からぬあるを かう さだ過ぐるまで などさしも乱るらむ と いぶかしくおぼえたまひければ 戯れ事言ひ触れて試みたまふに 似げなくも思はざりける あさまし と思しながら さすがにかかるもをかしうて ものなどのたまひてけれど 人の漏り聞かむも 古めかしきほどなれば つれなくもてなしたまへるを 女は いとつらしと思へり 

 [第二段 源氏 源典侍と和歌を詠み交わす]

 主上の御梳櫛にさぶらひけるを 果てにければ 主上は御袿の人召して出でさせたまひぬるほどに また人もなくて この内侍常よりもきよげに 様体 頭つきなまめきて 装束 ありさま いとはなやかに好ましげに見ゆるを さも古りがたうも と 心づきなく見たまふものから いかが思ふらむ と さすがに過ぐしがたくて 裳の裾を引きおどろかしたまへれば かはぼりのえならず画きたるを さし隠して見返りたるまみ いたう見延べたれど 目皮らいたく黒み落ち入りて いみじうはつれそそけたり 

 似つかはしからぬ扇のさまかな と見たまひて わが持たまへるに さしかへて見たまへば 赤き紙の うつるばかり色深きに 木高き森の画を塗り隠したり 片つ方に 手はいとさだ過ぎたれど よしなからず 森の下草老いぬれば など書きすさびたるを ことしもあれ うたての心ばへや と笑まれながら 
 森こそ夏の と見ゆめる 
 とて 何くれとのたまふも 似げなく 人や見つけむと苦しきを 女はさも思ひたらず 

 君し来ば手なれの駒に刈り飼はむ
 盛り過ぎたる下葉なりとも 

 と言ふさま こよなく色めきたり 

 笹分けば人やとがめむいつとなく
 駒なつくめる森の木隠れ
 わづらはしさに 

 とて 立ちたまふを ひかへて 
 まだかかるものをこそ思ひはべらね 今さらなる 身の恥になむ 
 とて泣くさま いといみじ 
 いま 聞こえむ 思ひながらぞや 
 とて 引き放ちて出でたまふを せめておよびて 橋柱 と怨みかくるを 主上は御袿果てて 御障子より覗かせたまひけり 似つかはしからぬあはひかな と いとをかしう思されて 
 好き心なしと 常にもて悩むめるを さはいへど 過ぐさざりけるは 
 とて 笑はせたまへば 内侍は なままばゆけれど 憎からぬ人ゆゑは 濡衣をだに着まほしがるたぐひもあなればにや いたうもあらがひきこえさせず 

 人びとも 思ひのほかなることかな と 扱ふめるを 頭中将 聞きつけて 至らぬ隈なき心にて まだ思ひ寄らざりけるよ と思ふに 尽きせぬ好み心も見まほしうなりにければ 語らひつきにけり 
 この君も 人よりはいとことなるを かのつれなき人の御慰めに と思ひつれど 見まほしきは 限りありけるをとや うたての好みや 

 [第三段 温明殿付近で密会中 頭中将に発見され脅される]

 いたう忍ぶれば 源氏の君はえ知りたまはず 見つけきこえては まづ怨みきこゆるを 齢のほどいとほしければ 慰めむと思せど かなはぬもの憂さに いと久しくなりにけるを 夕立して 名残涼しき宵のまぎれに 温明殿のわたりをたたずみありきたまへば この内侍 琵琶をいとをかしう弾きゐたり 御前などにても 男方の御遊びに交じりなどして ことにまさる人なき上手なれば もの恨めしうおぼえける折から いとあはれに聞こゆ 

 瓜作りになりやしなまし 
 と 声はいとをかしうて歌ふぞ すこし心づきなき 鄂州にありけむ昔の人も かくやをかしかりけむ と 耳とまりて聞きたまふ 弾きやみて いといたう思ひ乱れたるけはひなり 君 東屋 を忍びやかに歌ひて寄りたまへるに 
 押し開いて来ませ 
 と うち添へたるも 例に違ひたる心地ぞする 

 立ち濡るる人しもあらじ東屋に
 うたてもかかる雨そそきかな 

 と うち嘆くを 我ひとりしも聞き負ふまじけれど うとましや 何ごとをかくまでは と おぼゆ 

 人妻はあなわづらはし東屋の
 真屋のあまりも馴れじとぞ思ふ 

 とて うち過ぎなまほしけれど あまりはしたなくや と思ひ返して 人に従へば すこしはやりかなる戯れ言など言ひかはして これもめづらしき心地ぞしたまふ 

 頭中将は この君のいたうまめだち過ぐして 常にもどきたまふがねたきを つれなくてうちうち忍びたまふかたがた多かめるを いかで見あらはさむ とのみ思ひわたるに これを見つけたる心地 いとうれし かかる折に すこし脅しきこえて 御心まどはして 懲りぬやと言はむ と思ひて たゆめきこゆ 

 風ひややかにうち吹きて やや更けゆくほどに すこしまどろむにやと見ゆるけしきなれば やをら入り来るに 君は とけてしも寝たまはぬ心なれば ふと聞きつけて この中将とは思ひ寄らず なほ忘れがたくすなる修理大夫にこそあらめ と思すに おとなおとなしき人に かく似げなきふるまひをして 見つけられむことは 恥づかしければ 

 あな わづらはし 出でなむよ 蜘蛛のふるまひは しるかりつらむものを 心憂く すかしたまひけるよ 

 とて 直衣ばかりを取りて 屏風のうしろに入りたまひぬ 中将 をかしきを念じて 引きたてまつる屏風のもとに寄りて ごほごほとたたみ寄せて おどろおどろしく騒がすに 内侍は ねびたれど いたくよしばみなよびたる人の 先々もかやうにて 心動かす折々ありければ ならひて いみじく心あわたたしきにも この君をいかにしきこえぬるか とわびしさに ふるふふるふつとひかへたり 誰れと知られで出でなばや と思せど しどけなき姿にて 冠などうちゆがめて走らむうしろで思ふに いとをこなるべし と 思しやすらふ 

 中将 いかで我と知られきこえじ と思ひて ものも言はず ただいみじう怒れるけしきにもてなして 太刀を引き抜けば 女 
 あが君 あが君 
 と 向ひて手をするに ほとほと笑ひぬべし 好ましう若やぎてもてなしたるうはべこそ さりもありけれ 五十七 八の人の うちとけてもの言ひ騒げるけはひ えならぬ二十の若人たちの御なかにてもの怖ぢしたる いとつきなし かうあらぬさまにもてひがめて 恐ろしげなるけしきを見すれど なかなかしるく見つけたまひて 我と知りて ことさらにするなりけり と をこになりぬ その人なめり と見たまふに いとをかしければ 太刀抜きたるかひなをとらへて いといたうつみたまへれば ねたきものから え堪へで笑ひぬ 

 まことは うつし心かとよ 戯れにくしや いで この直衣着む 
 とのたまへど つととらへて さらに許しきこえず 
 さらば もろともにこそ 
 とて 中将の帯をひき解きて脱がせたまへば 脱がじとすまふを とかくひきしろふほどに ほころびはほろほろと絶えぬ 中将 

 つつむめる名や漏り出でむ引きかはし
 かくほころぶる中の衣に
 上に取り着ば しるからむ 

 と言ふ 君 

 隠れなきものと知る知る夏衣
 着たるを薄き心とぞ見る 

 と言ひかはして うらやみなきしどけな姿に引きなされて みな出でたまひぬ 

 [第四段 翌日 源氏と頭中将と宮中で応酬しあう]

 君は いと口惜しく見つけられぬること と思ひ 臥したまへり 内侍は あさましくおぼえければ 落ちとまれる御指貫 帯など つとめてたてまつれり 

 恨みてもいふかひぞなきたちかさね
 引きてかへりし波のなごりに
 底もあらはに 

 とあり 面無のさまや と見たまふも憎けれど わりなしと思へりしもさすがにて 

 荒らだちし波に心は騒がねど
 寄せけむ磯をいかが恨みぬ 

 とのみなむありける 帯は 中将のなりけり わが御直衣よりは色深し と見たまふに 端袖もなかりけり 
 あやしのことどもや おり立ちて乱るる人は むべをこがましきことは多からむ と いとど御心をさめられたまふ 
 中将 宿直所より これ まづ綴ぢつけさせたまへ とて おし包みておこせたるを いかで取りつらむ と 心やまし この帯を得ざらましかば と思す その色の紙に包みて 

 なか絶えばかことや負ふと危ふさに
 はなだの帯を取りてだに見ず 

 とて やりたまふ 立ち返り 

 君にかく引き取られぬる帯なれば
 かくて絶えぬるなかとかこたむ
 え逃れさせたまはじ 
 とあり 

 日たけて おのおの殿上に参りたまへり いと静かに もの遠きさましておはするに 頭の君もいとをかしけれど 公事多く奏しくだす日にて いとうるはしくすくよかなるを見るも かたみにほほ笑まる 人まにさし寄りて 
 もの隠しは懲りぬらむかし 
 とて いとねたげなるしり目なり 
 などてか さしもあらむ 立ちながら帰りけむ人こそ いとほしけれ まことは 憂しや 世の中よ 
 と言ひあはせて 鳥籠の山なる と かたみに口がたむ 

 さて そののち ともすればことのついでごとに 言ひ迎ふるくさはひなるを いとどものむつかしき人ゆゑと 思し知るべし 女は なほいと艶に怨みかくるを わびしと思ひありきたまふ 

 中将は 妹の君にも聞こえ出でず ただ さるべき折の脅しぐさにせむ とぞ思ひける やむごとなき御腹々の親王たちだに 主上の御もてなしのこよなきにわづらはしがりて いとことにさりきこえたまへるを この中将は さらにおし消たれきこえじ と はかなきことにつけても 思ひいどみきこえたまふ 

 この君一人ぞ 姫君の御一つ腹なりける 帝の御子といふばかりにこそあれ 我も 同じ大臣と聞こゆれど 御おぼえことなるが 皇女腹にてまたなくかしづかれたるは 何ばかり劣るべき際と おぼえたまはぬなるべし 人がらも あるべき限りととのひて 何ごともあらまほしく たらひてぞものしたまひける この御仲どもの挑みこそ あやしかりしか されど うるさくてなむ 

 

第五章 藤壺の物語(三) 秋 藤壺は中宮 源氏は宰相となる
 [第一段 七月に藤壺女御 中宮に立つ]

 七月にぞ后ゐたまふめりし 源氏の君 宰相になりたまひぬ 帝 下りゐさせたまはむの御心づかひ近うなりて この若宮を坊に と思ひきこえさせたまふに 御後見したまふべき人おはせず 御母方の みな親王たちにて 源氏の公事しりたまふ筋ならねば 母宮をだに動きなきさまにしおきたてまつりて 強りにと思すになむありける 

 弘徽殿 いとど御心動きたまふ ことわりなり されど 
 春宮の御世 いと近うなりぬれば 疑ひなき御位なり 思ほしのどめよ 
 とぞ聞こえさせたまひける げに 春宮の御母にて二十余年になりたまへる女御をおきたてまつりては 引き越したてまつりたまひがたきことなりかし と 例の やすからず世人も聞こえけり 

 参りたまふ夜の御供に 宰相君も仕うまつりたまふ 同じ宮と聞こゆるなかにも 后腹の皇女 玉光りかかやきて たぐひなき御おぼえにさへものしたまへば 人もいとことに思ひかしづききこえたり まして わりなき御心には 御輿のうちも思ひやられて いとど及びなき心地したまふに すずろはしきまでなむ 

 尽きもせぬ心の闇に暮るるかな
 雲居に人を見るにつけても 

 とのみ 独りごたれつつ ものいとあはれなり 

 皇子は およすけたまふ月日に従ひて いと見たてまつり分きがたげなるを 宮 いと苦し と思せど 思ひ寄る人なきなめりかし げに いかさまに作り変へてかは 劣らぬ御ありさまは 世に出でものしたまはまし 月日の光の空に通ひたるやうに ぞ世人も思へる 

花宴

 朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語
 [第一段 二月二十余日 紫宸殿の桜花の宴]

 如月の二十日あまり 南殿の桜の宴せさせたまふ 后 春宮の御局 左右にして 参う上りたまふ 弘徽殿の女御 中宮のかくておはするを をりふしごとにやすからず思せど 物見にはえ過ぐしたまはで 参りたまふ 

 日いとよく晴れて 空のけしき 鳥の声も 心地よげなるに 親王たち 上達部よりはじめて その道のは皆 探韻賜はりて文つくりたまふ 宰相中将 春といふ文字賜はれり と のたまふ声さへ 例の 人に異なり 次に頭中将 人の目移しも ただならずおぼゆべかめれど いとめやすくもてしづめて 声づかひなど ものものしくすぐれたり さての人びとは 皆臆しがちに鼻白める多かり 地下の人は まして 帝 春宮の御才かしこくすぐれておはします かかる方にやむごとなき人多くものしたまふころなるに 恥づかしく はるばると曇りなき庭に立ち出づるほど はしたなくて やすきことなれど 苦しげなり 年老いたる博士どもの なりあやしくやつれて 例馴れたるも あはれに さまざま御覧ずるなむ をかしかりける 

 楽どもなどは さらにもいはずととのへさせたまへり やうやう入り日になるほど 春の鴬囀るといふ舞 いとおもしろく見ゆるに 源氏の御紅葉の賀の折 思し出でられて 春宮 かざし賜はせて せちに責めのたまはするに 逃がれがたくて 立ちてのどかに袖返すところを一折れ けしきばかり舞ひたまへるに 似るべきものなく見ゆ 左大臣 恨めしさも忘れて 涙落したまふ 

 頭中将 いづら 遅し 
 とあれば 柳花苑といふ舞を これは今すこし過ぐして かかることもやと 心づかひやしけむ いとおもしろければ 御衣賜はりて いとめづらしきことに人思へり 上達部皆乱れて舞ひたまへど 夜に入りては ことにけぢめも見えず 文など講ずるにも 源氏の君の御をば 講師もえ読みやらず 句ごとに誦じののしる 博士どもの心にも いみじう思へり 

 かうやうの折にも まづこの君を光にしたまへれば 帝もいかでかおろかに思されむ 中宮 御目のとまるにつけて 春宮の女御のあながちに憎みたまふらむもあやしう わがかう思ふも心憂し とぞ みづから思し返されける 

 おほかたに花の姿を見ましかば
 つゆも心のおかれましやは 

 御心のうちなりけむこと いかで漏りにけむ 

 [第二段 宴の後 朧月夜の君と出逢う]

 夜いたう更けてなむ 事果てける 
 上達部おのおのあかれ 后 春宮帰らせたまひぬれば のどやかになりぬるに 月いと明うさし出でてをかしきを 源氏の君 酔ひ心地に 見過ぐしがたくおぼえたまひければ 上の人びともうち休みて かやうに思ひかけぬほどに もしさりぬべき隙もやある と 藤壺わたりを わりなう忍びてうかがひありけど 語らふべき戸口も鎖してければ うち嘆きて なほあらじに 弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば 三の口開きたり 

 女御は 上の御局にやがて参う上りたまひにければ 人少ななるけはひなり 奥の枢戸も開きて 人音もせず 
 かやうにて 世の中のあやまちはするぞかし と思ひて やをら上りて覗きたまふ 人は皆寝たるべし いと若うをかしげなる声の なべての人とは聞こえぬ 

 朧月夜に似るものぞなき 

 とうち誦じて こなたざまには来るものか いとうれしくて ふと袖をとらへたまふ 女 恐ろしと思へるけしきにて 
 あな むくつけ こは 誰そ とのたまへど 
 何か 疎ましき とて 

 深き夜のあはれを知るも入る月の
 おぼろけならぬ契りとぞ思ふ 

 とて やをら抱き下ろして 戸は押し立てつ あさましきにあきれたるさま いとなつかしうをかしげなり わななくわななく 
 ここに 人 
 と のたまへど 
 まろは 皆人に許されたれば 召し寄せたりとも なんでふことかあらむ ただ 忍びてこそ 

 とのたまふ声に この君なりけりと聞き定めて いささか慰めけり わびしと思へるものから 情けなくこはごはしうは見えじ と思へり 酔ひ心地や例ならざりけむ 許さむことは口惜しきに 女も若うたをやぎて 強き心も知らぬなるべし 

 らうたしと見たまふに ほどなく明けゆけば 心あわたたし 女は まして さまざまに思ひ乱れたるけしきなり 
 なほ 名のりしたまへ いかでか 聞こゆべき かうてやみなむとは さりとも思されじ 
 とのたまへば 

 憂き身世にやがて消えなば尋ねても
 草の原をば問はじとや思ふ 

 と言ふさま 艶になまめきたり 
 ことわりや 聞こえ違へたる文字かな とて 

 いづれぞと露のやどりを分かむまに
 小笹が原に風もこそ吹け

 わづらはしく思すことならずは 何かつつまむ もし すかいたまふか 
 とも言ひあへず 人々起き騒ぎ 上の御局に参りちがふけしきども しげくまよへば いとわりなくて 扇ばかりをしるしに取り換へて 出でたまひぬ 

 桐壺には 人びと多くさぶらひて おどろきたるもあれば かかるを 
 さも たゆみなき御忍びありきかな 
 とつきしろひつつ そら寝をぞしあへる 入りたまひて臥したまへれど 寝入られず 

 をかしかりつる人のさまかな 女御の御おとうとたちにこそはあらめ まだ世に馴れぬは 五 六の君ならむかし 帥宮の北の方 頭中将のすさめぬ四の君などこそ よしと聞きしか なかなかそれならましかば 今すこしをかしからまし 六は春宮にたてまつらむとこころざしたまへるを いとほしうもあるべいかな わづらはしう 尋ねむほどもまぎらはし さて絶えなむとは思はぬけしきなりつるを いかなれば 言通はすべきさまを教へずなりぬらむ 

 など よろづに思ふも 心のとまるなるべし かうやうなるにつけても まづ かのわたりのありさまの こよなう奥まりたるはや と ありがたう思ひ比べられたまふ 

 [第三段 桜宴の翌日 昨夜の女性の素性を知りたがる]

 その日は後宴のことありて まぎれ暮らしたまひつ 箏の琴仕うまつりたまふ 昨日のことよりも なまめかしうおもしろし 藤壺は 暁に参う上りたまひにけり かの有明 出でやしぬらむ と 心もそらにて 思ひ至らぬ隈なき良清 惟光をつけて うかがはせたまひければ 御前よりまかでたまひけるほどに 

 ただ今 北の陣より かねてより隠れ立ちてはべりつる車どもまかり出づる 御方々の里人はべりつるなかに 四位の少将 右中弁など急ぎ出でて 送りしはべりつるや 弘徽殿の御あかれならむと見たまへつる けしうはあらぬけはひどもしるくて 車三つばかりはべりつ 

 と聞こゆるにも 胸うちつぶれたまふ 
 いかにして いづれと知らむ 父大臣など聞きて ことごとしうもてなさむも いかにぞや まだ 人のありさまよく見さだめぬほどは わづらはしかるべし さりとて 知らであらむ はた いと口惜しかるべければ いかにせまし と 思しわづらひて つくづくとながめ臥したまへり 

 姫君 いかにつれづれならむ 日ごろになれば 屈してやあらむ と らうたく思しやる かのしるしの扇は 桜襲ねにて 濃きかたにかすめる月を描きて 水にうつしたる心ばへ 目馴れたれど ゆゑなつかしうもてならしたり 草の原をば と言ひしさまのみ 心にかかりたまへば 

 世に知らぬ心地こそすれ有明の
 月のゆくへを空にまがへて 

 と書きつけたまひて 置きたまへり 

 [第四段 紫の君の理想的成長ぶり 葵の上との夫婦仲不仲]

 大殿にも久しうなりにける と思せど 若君も心苦しければ こしらへむと思して 二条院へおはしぬ 見るままに いとうつくしげに生ひなりて 愛敬づきらうらうじき心ばへ いとことなり 飽かぬところなう わが御心のままに教へなさむ と思すにかなひぬべし 男の御教へなれば すこし人馴れたることや混じらむと思ふこそ うしろめたけれ 

 日ごろの御物語 御琴など教へ暮らして出でたまふを 例のと 口惜しう思せど 今はいとようならはされて わりなくは慕ひまつはさず 

 大殿には 例の ふとも対面したまはず つれづれとよろづ思しめぐらされて 箏の御琴まさぐりて 
 やはらかに寝る夜はなくて 
 とうたひたまふ 大臣渡りたまひて 一日の興ありしこと 聞こえたまふ 

 ここらの齢にて 明王の御代 四代をなむ見はべりぬれど このたびのやうに 文ども警策に 舞 楽 物の音どもととのほりて 齢延ぶることなむはべらざりつる 道々のものの上手ども多かるころほひ 詳しうしろしめし ととのへさせたまへるけなり 翁もほとほと舞ひ出でぬべき心地なむしはべりし 

 と聞こえたまへば 

 ことにととのへ行ふこともはべらず ただ公事に そしうなる物の師どもを ここかしこに尋ねはべりしなり よろづのことよりは 柳花苑 まことに後代の例ともなりぬべく見たまへしに まして さかゆく春 に立ち出でさせたまへらましかば 世の面目にやはべらまし 

 と聞こえたまふ 

 弁 中将など参りあひて 高欄に背中おしつつ とりどりに物の音ども調べ合はせて遊びたまふ いとおもしろし 

 [第五段 三月二十余日 右大臣邸の藤花の宴]

 かの有明の君は はかなかりし夢を思し出でて いともの嘆かしうながめたまふ 春宮には 卯月ばかりと思し定めたれば いとわりなう思し乱れたるを 男も 尋ねたまはむにあとはかなくはあらねど いづれとも知らで ことに許したまはぬあたりにかかづらはむも 人悪く思ひわづらひたまふに 弥生の二十余日 右の大殿の弓の結に 上達部 親王たち多く集へたまひて やがて藤の宴したまふ 

 花盛りは過ぎにたるを ほかの散りなむ とや教へられたりけむ 遅れて咲く桜 二木ぞいとおもしろき 新しう造りたまへる殿を 宮たちの御裳着の日 磨きしつらはれたり はなばなとものしたまふ殿のやうにて 何ごとも今めかしうもてなしたまへり 

 源氏の君にも 一日 内裏にて御対面のついでに 聞こえたまひしかど おはせねば 口惜しう ものの栄なしと思して 御子の四位少将をたてまつりたまふ 

 わが宿の花しなべての色ならば
 何かはさらに君を待たまし 

 内裏におはするほどにて 主上に奏したまふ 
 したり顔なりや と笑はせたまひて 
 わざとあめるを 早うものせよかし 女御子たちなども 生ひ出づるところなれば なべてのさまには思ふまじきを 
 などのたまはす 御装ひなどひきつくろひたまひて いたう暮るるほどに 待たれてぞ渡りたまふ 

 桜の唐の綺の御直衣 葡萄染の下襲 裾いと長く引きて 皆人は表の衣なるに あざれたる大君姿のなまめきたるにて いつかれ入りたまへる御さま げにいと異なり 花の匂ひもけおされて なかなかことざましになむ 

 遊びなどいとおもしろうしたまひて 夜すこし更けゆくほどに 源氏の君 いたく酔ひ悩めるさまにもてなしたまひて 紛れ立ちたまひぬ 

 寝殿に 女一宮 女三宮のおはします 東の戸口におはして 寄りゐたまへり 藤はこなたの妻にあたりてあれば 御格子ども上げわたして 人びと出でゐたり 袖口など 踏歌の折おぼえて ことさらめきもて出でたるを ふさはしからずと まづ藤壺わたり思し出でらる 

 なやましきに いといたう強ひられて わびにてはべり かしこけれど この御前にこそは 蔭にも隠させたまはめ 
 とて 妻戸の御簾を引き着たまへば 
 あな わづらはし よからぬ人こそ やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ 
 と言ふけしきを見たまふに 重々しうはあらねど おしなべての若人どもにはあらず あてにをかしきけはひしるし 

 そらだきもの いと煙たうくゆりて 衣の音なひ いとはなやかにふるまひなして 心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ 今めかしきことを好みたるわたりにて やむごとなき御方々もの見たまふとて この戸口は占めたまへるなるべし さしもあるまじきことなれど さすがにをかしう思ほされて いづれならむ と 胸うちつぶれて 

 扇を取られて からきめを見る 
 と うちおほどけたる声に言ひなして 寄りゐたまへり 
 あやしくも さま変へける高麗人かな 
 といらふるは 心知らぬにやあらむ いらへはせで ただ時々 うち嘆くけはひする方に寄りかかりて 几帳越しに手をとらへて 

 梓弓いるさの山に惑ふかな
 ほの見し月の影や見ゆると
 何ゆゑか 

 と 推し当てにのたまふを え忍ばぬなるべし 

 心いる方ならませば弓張の
 月なき空に迷はましやは 

 と言ふ声 ただそれなり いとうれしきものから 

第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語
 [第一段 朱雀帝即位後の光る源氏]

 世の中かはりて後 よろづもの憂く思され 御身のやむごとなさも添ふにや 軽々しき御忍び歩きもつつましうて ここもかしこも おぼつかなさの嘆きを重ねたまふ 報いにや なほ我につれなき人の御心を 尽きせずのみ思し嘆く 

 今は ましてひまなう ただ人のやうにて添ひおはしますを 今后は心やましう思すにや 内裏にのみさぶらひたまへば 立ち並ぶ人なう心やすげなり 折ふしに従ひては 御遊びなどを好ましう 世の響くばかりせさせたまひつつ 今の御ありさましもめでたし ただ 春宮をぞいと恋しう思ひきこえたまふ 御後見のなきを うしろめたう思ひきこえて 大将の君によろづ聞こえつけたまふも かたはらいたきものから うれしと思す 

 まことや かの六条御息所の御腹の前坊の姫君 斎宮にゐたまひにしかば 大将の御心ばへもいと頼もしげなきを 幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし と かねてより思しけり 

 院にも かかることなむと 聞こし召して 
 故宮のいとやむごとなく思し 時めかしたまひしものを 軽々しうおしなべたるさまにもてなすなるが いとほしきこと 斎宮をも この御子たちの列になむ思へば いづかたにつけても おろかならざらむこそよからめ 心のすさびにまかせて かく好色わざするは いと世のもどき負ひぬべきことなり 
 など 御けしき悪しければ わが御心地にも げにと思ひ知らるれば かしこまりてさぶらひたまふ 

 人のため 恥ぢがましきことなく いづれをもなだらかにもてなして 女の怨みな負ひそ 
 とのたまはするにも けしからぬ心のおほけなさを聞こし召しつけたらむ時 と 恐ろしければ かしこまりてまかでたまひぬ 

 また かく院にも聞こし召し のたまはするに 人の御名も わがためも 好色がましういとほしきに いとどやむごとなく 心苦しき筋には思ひきこえたまへど まだ表はれては わざともてなしきこえたまはず 
 女も 似げなき御年のほどを恥づかしう思して 心とけたまはぬけしきなれば それにつつみたるさまにもてなして 院に聞こし召し入れ 世の中の人も知らぬなくなりにたるを 深うしもあらぬ御心のほどを いみじう思し嘆きけり 

 かかることを聞きたまふにも 朝顔の姫君は いかで 人に似じ と深う思せば はかなきさまなりし御返りなども をさをさなし さりとて 人憎く はしたなくはもてなしたまはぬ御けしきを 君も なほことなり と思しわたる 

 大殿には かくのみ定めなき御心を 心づきなしと思せど あまりつつまぬ御けしきの いふかひなければにやあらむ 深うも怨じきこえたまはず 心苦しきさまの御心地に悩みたまひて もの心細げに思いたり めづらしくあはれと思ひきこえたまふ 誰れも誰れもうれしきものから ゆゆしう思して さまざまの御つつしみせさせたてまつりたまふ かやうなるほどに いとど御心のいとまなくて 思しおこたるとはなけれど とだえ多かるべし 

 [第二段 新斎院御禊の見物]

 そのころ 斎院も下りゐたまひて 后腹の女三宮ゐたまひぬ 帝 后と ことに思ひきこえたまへる宮なれば 筋ことになりたまふを いと苦しう思したれど こと宮たちのさるべきおはせず 儀式など 常の神わざなれど いかめしうののしる 祭のほど 限りある公事に添ふこと多く 見所こよなし 人からと見えたり 

 御禊の日 上達部など 数定まりて仕うまつりたまふわざなれど おぼえことに 容貌ある限り 下襲の色 表の袴の紋 馬鞍までみな調へたり とりわきたる宣旨にて 大将の君も仕うまつりたまふ かねてより 物見車心づかひしけり 
 一条の大路 所なく むくつけきまで騒ぎたり 所々の御桟敷 心々にし尽くしたるしつらひ 人の袖口さへ いみじき見物なり 

 大殿には かやうの御歩きもをさをさしたまはぬに 御心地さへ悩ましければ 思しかけざりけるを 若き人びと 
 いでや おのがどちひき忍びて見はべらむこそ 栄なかるべけれ おほよそ人だに 今日の物見には 大将殿をこそは あやしき山賤さへ見たてまつらむとすなれ 遠き国々より 妻子を引き具しつつも参うで来なるを 御覧ぜぬは いとあまりもはべるかな 
 と言ふを 大宮聞こしめして 
 御心地もよろしき隙なり さぶらふ人びともさうざうしげなめり 
 とて にはかにめぐらし仰せたまひて 見たまふ 

 日たけゆきて 儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり 隙もなう立ちわたりたるに よそほしう引き続きて立ちわづらふ よき女房車多くて 雑々の人なき隙を思ひ定めて 皆さし退けさするなかに 網代のすこしなれたるが 下簾のさまなどよしばめるに いたう引き入りて ほのかなる袖口 裳の裾 汗衫など ものの色 いときよらにて ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車 二つあり 

 これは さらに さやうにさし退けなどすべき御車にもあらず 
 と 口ごはくて 手触れさせず いづかたにも 若き者ども酔ひ過ぎ 立ち騒ぎたるほどのことは えしたためあへず おとなおとなしき御前の人びとは かくな など言へど えとどめあへず 
 斎宮の御母御息所 もの思し乱るる慰めにもやと 忍びて出でたまへるなりけり つれなしつくれど おのづから見知りぬ 
 さばかりにては さな言はせそ 
 大将殿をぞ 豪家には思ひきこゆらむ 
 など言ふを その御方の人も混じれば いとほしと見ながら 用意せむもわづらはしければ 知らず顔をつくる 

 つひに 御車ども立て続けつれば ひとだまひの奥におしやられて 物も見えず 心やましきをばさるものにて かかるやつれをそれと知られぬるが いみじうねたきこと 限りなし 榻などもみな押し折られて すずろなる車の筒にうちかけたれば またなう人悪ろく くやしう 何に 来つらむ と思ふにかひなし 物も見で帰らむとしたまへど 通り出でむ隙もなきに 
 事なりぬ 
 と言へば さすがに つらき人の御前渡りの待たるるも 心弱しや 笹の隈 にだにあらねばにや つれなく過ぎたまふにつけても なかなか御心づくしなり 

 げに 常よりも好みととのへたる車どもの 我も我もと乗りこぼれたる下簾の隙間どもも さらぬ顔なれど ほほ笑みつつ後目にとどめたまふもあり 大殿のは しるければ まめだちて渡りたまふ 御供の人びとうちかしこまり 心ばへありつつ渡るを おし消たれたるありさま こよなう思さる 

 影をのみ御手洗川のつれなきに
 身の憂きほどぞいとど知らるる 

 と 涙のこぼるるを 人の見るもはしたなけれど 目もあやなる御さま 容貌の いとどしう出でばえを見ざらましかば と思さる 

 ほどほどにつけて 装束 人のありさま いみじくととのへたりと見ゆるなかにも 上達部はいとことなるを 一所の御光にはおし消たれためり 大将の御仮の随身に 殿上の将監などのすることは常のことにもあらず めづらしき行幸などの折のわざなるを 今日は右近の蔵人の将監仕うまつれり さらぬ御随身どもも 容貌 姿 まばゆくととのへて 世にもてかしづかれたまへるさま 木草もなびかぬはあるまじげなり 

 壺装束などいふ姿にて 女房の卑しからぬや また尼などの世を背きけるなども 倒れまどひつつ 物見に出でたるも 例は あながちなりや あなにく と見ゆるに 今日はことわりに 口うちすげみて 髪着こめたるあやしの者どもの 手をつくりて 額にあてつつ見たてまつりあげたるも をこがましげなる賤の男まで おのが顔のならむさまをば知らで笑みさかえたり 何とも見入れたまふまじき えせ受領の娘などさへ 心の限り尽くしたる車どもに乗り さまことさらび心げさうしたるなむ をかしきやうやうの見物なりける 
 まして ここかしこにうち忍びて通ひたまふ所々は 人知れずのみ数ならぬ嘆きまさるも 多かり 

 式部卿の宮 桟敷にてぞ見たまひける 
 いとまばゆきまでねびゆく人の容貌かな 神などは目もこそとめたまへ 
 と ゆゆしく思したり 姫君は 年ごろ聞こえわたりたまふ御心ばへの世の人に似ぬを 
 なのめならむにてだにあり まして かうしも いかで 
 と御心とまりけり いとど近くて見えむまでは思しよらず 若き人びとは 聞きにくきまでめできこえあへり 

 祭の日は 大殿にはもの見たまはず 大将の君 かの御車の所争ひを まねび聞こゆる人ありければ いといとほしう憂し と思して 
 なほ あたら重りかにおはする人の ものに情けおくれ すくすくしきところつきたまへるあまりに みづからはさしも思さざりけめども かかる仲らひは情け交はすべきものとも思いたらぬ御おきてに従ひて 次々よからぬ人のせさせたるならむかし 御息所は 心ばせのいと恥づかしく よしありておはするものを いかに思し憂じにけむ 
 と いとほしくて 参うでたまへりけれど 斎宮のまだ本の宮におはしませば 榊の憚りにことつけて 心やすくも対面したまはず ことわりとは思しながら なぞや かくかたみにそばそばしからでおはせかし と うちつぶやかれたまふ 

 [第三段 賀茂祭の当日 紫の君と見物]

 今日は 二条院に離れおはして 祭見に出でたまふ 西の対に渡りたまひて 惟光に車のこと仰せたり 
 女房出で立つや 
 とのたまひて 姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを うち笑みて見たてまつりたまふ 
 君は いざたまへ もろともに見むよ 
 とて 御髪の常よりもきよらに見ゆるを かきなでたまひて 
 久しう削ぎたまはざめるを 今日は 吉き日ならむかし 
 とて 暦の博士召して 時問はせなどしたまふほどに 
 まづ 女房出でね 
 とて 童の姿どものをかしげなるを御覧ず いとらうたげなる髪どものすそ はなやかに削ぎわたして 浮紋の表の袴にかかれるほど けざやかに見ゆ 
 君の御髪は 我削がむ とて うたて 所狭うもあるかな いかに生ひやらむとすらむ 
 と 削ぎわづらひたまふ 
 いと長き人も 額髪はすこし短うぞあめるを むげに後れたる筋のなきや あまり情けなからむ 
 とて 削ぎ果てて 千尋 と祝ひきこえたまふを 少納言 あはれにかたじけなし と見たてまつる 

 はかりなき千尋の底の海松ぶさの
 生ひゆくすゑは我のみぞ見む 

 と聞こえたまへば 

 千尋ともいかでか知らむ定めなく
 満ち干る潮ののどけからぬに 

 と ものに書きつけておはするさま らうらうじきものから 若うをかしきを めでたしと思す 

 今日も 所もなく立ちにけり 馬場の御殿のほどに立てわづらひて 
 上達部の車ども多くて もの騒がしげなるわたりかな 
 と やすらひたまふに よろしき女車の いたう乗りこぼれたるより 扇をさし出でて 人を招き寄せて 
 ここにやは立たせたまはぬ 所避りきこえむ 
 と聞こえたり いかなる好色者ならむ と思されて 所もげによきわたりなれば 引き寄せさせたまひて 
 いかで得たまへる所ぞと ねたさになむ 
 とのたまへば よしある扇のつまを折りて 

 はかなしや人のかざせる葵ゆゑ
 神の許しの今日を待ちける
 注連の内には 

 とある手を思し出づれば かの典侍なりけり あさましう 旧りがたくも今めくかな と 憎さに はしたなう 

 かざしける心ぞあだにおもほゆる
 八十氏人になべて逢ふ日を 

 女は つらし と思ひきこえけり 

 悔しくもかざしけるかな名のみして
 人だのめなる草葉ばかりを 

 と聞こゆ 人と相ひ乗りて 簾をだに上げたまはぬを 心やましう思ふ人多かり 
 一日の御ありさまのうるはしかりしに 今日うち乱れて歩きたまふかし 誰ならむ 乗り並ぶ人 けしうはあらじはや と 推し量りきこゆ 挑ましからぬ かざし争ひかな と さうざうしく思せど かやうにいと面なからぬ人はた 人相ひ乗りたまへるにつつまれて はかなき御いらへも 心やすく聞こえむも まばゆしかし 

 

第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語
 [第一段 車争い後の六条御息所]

 御息所は ものを思し乱るること 年ごろよりも多く添ひにけり つらき方に思ひ果てたまへど 今はとてふり離れ下りたまひなむは いと心細かりぬべく 世の人聞きも人笑へにならむこと と思す さりとて立ち止まるべく思しなるには かくこよなきさまに皆思ひくたすべかめるも やすからず 釣する海人の浮けなれや と 起き臥し思しわづらふけにや 御心地も浮きたるやうに思されて 悩ましうしたまふ 

 大将殿には 下りたまはむことを もて離れてあるまじきこと なども 妨げきこえたまはず 
 数ならぬ身を 見ま憂く思し捨てむもことわりなれど 今はなほ いふかひなきにても 御覧じ果てむや 浅からぬにはあらむ 
 と 聞こえかかづらひたまへば 定めかねたまへる御心もや慰むと 立ち出でたまへりし御禊河の荒かりし瀬に いとど よろづいと憂く思し入れたり 

 大殿には 御もののけめきて いたうわづらひたまへば 誰も誰も思し嘆くに 御歩きなど便なきころなれば 二条院にも時々ぞ渡りたまふ さはいへど やむごとなき方は ことに思ひきこえたまへる人の めづらしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば 心苦しう思し嘆きて 御修法や何やなど わが御方にて 多く行はせたまふ 

 もののけ 生すだまなどいふもの多く出で来て さまざまの名のりするなかに 人にさらに移らず ただみづからの御身につと添ひたるさまにて ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど また 片時離るる折もなきもの一つあり いみじき験者どもにも従はず 執念きけしき おぼろけのものにあらずと見えたり 

 大将の君の御通ひ所 ここかしこと思し当つるに 
 この御息所 二条の君などばかりこそは おしなべてのさまには思したらざめれば 怨みの心も深からめ 
 とささめきて ものなど問はせたまへど さして聞こえ当つることもなし もののけとても わざと深き御かたきと聞こゆるもなし 過ぎにける御乳母だつ人 もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの 弱目に出で来たるなど むねむねしからずぞ乱れ現はるる ただつくづくと 音をのみ泣きたまひて 折々は胸をせき上げつつ いみじう堪へがたげに惑ふわざをしたまへば いかにおはすべきにかと ゆゆしう悲しく思しあわてたり 

 院よりも 御とぶらひ隙なく 御祈りのことまで思し寄らせたまふさまのかたじけなきにつけても いとど惜しげなる人の御身なり 
 世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも 御息所はただならず思さる 年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を はかなかりし所の車争ひに 人の御心の動きにけるを かの殿には さまでも思し寄らざりけり 

 [第二段 源氏 御息所を旅所に見舞う]

 かかる御もの思ひの乱れに 御心地 なほ例ならずのみ思さるれば ほかに渡りたまひて 御修法などせさせたまふ 大将殿聞きたまひて いかなる御心地にかと いとほしう 思し起して渡りたまへり 
 例ならぬ旅所なれば いたう忍びたまふ 心よりほかなるおこたりなど 罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて 悩みたまふ人の御ありさまも 憂へきこえたまふ 

 みづからはさしも思ひ入れはべらねど 親たちのいとことことしう思ひまどはるるが心苦しさに かかるほどを見過ぐさむとてなむ よろづを思しのどめたる御心ならば いとうれしうなむ 
 など 語らひきこえたまふ 常よりも心苦しげなる御けしきを ことわりに あはれに見たてまつりたまふ 

 うちとけぬ朝ぼらけに 出でたまふ御さまのをかしきにも なほふり離れなむことは思し返さる 
 やむごとなき方に いとど心ざし添ひたまふべきことも出で来にたれば 一つ方に思ししづまりたまひなむを かやうに待ちきこえつつあらむも 心のみ尽きぬべきこと 
 なかなかもの思ひのおどろかさるる心地したまふに 御文ばかりぞ 暮れつ方ある 

 日ごろ すこしおこたるさまなりつる心地の にはかにいといたう苦しげにはべるを え引きよかでなむ 
 とあるを 例のことつけ と 見たまふものから 

 袖濡るる恋路とかつは知りながら
 おりたつ田子のみづからぞ憂き
 『山の井の水』もことわりに 

 とぞある 御手は なほここらの人のなかにすぐれたりかし と見たまひつつ いかにぞやもある世かな 心も容貌も とりどりに捨つべくもなく また思ひ定むべきもなきを 苦しう思さる 御返り いと暗うなりにたれど 
 袖のみ濡るるや いかに 深からぬ御ことになむ 

 浅みにや人はおりたつわが方は
 身もそぼつまで深き恋路を

 おぼろけにてや この御返りを みづから聞こえさせぬ 
 などあり 

 [第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する]

 大殿には 御もののけいたう起こりて いみじうわづらひたまふ この御生きすだま 故父大臣の御霊など言ふものあり と聞きたまふにつけて 思しつづくれば 
 身一つの憂き嘆きよりほかに 人を悪しかれなど思ふ心もなけれど もの思ひにあくがるなる魂は さもやあらむ 
 と思し知らるることもあり 

 年ごろ よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど かうしも砕けぬを はかなきことの折に 人の思ひ消ち なきものにもてなすさまなりし御禊の後 ひとふしに思し浮かれにし心 鎮まりがたう思さるるけにや すこしうちまどろみたまふ夢には かの姫君とおぼしき人の いときよらにてある所に行きて とかく引きまさぐり うつつにも似ず たけくいかきひたぶる心出で来て うちかなぐるなど見えたまふこと 度かさなりにけり 

 あな 心憂や げに 身を捨ててや 往にけむ と うつし心ならずおぼえたまふ折々もあれば さならぬことだに 人の御ためには よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば ましてこれは いとよう言ひなしつべきたよりなり と思すに いと名だたしう 
 ひたすら世に亡くなりて 後に怨み残すは世の常のことなり それだに 人の上にては 罪深うゆゆしきを うつつのわが身ながら さる疎ましきことを言ひつけらるる宿世の憂きこと すべて つれなき人にいかで心もかけきこえじ 
 と思し返せど 思ふもものをなり 

 [第四段 斎宮 秋に宮中の初斎院に入る]

 斎宮は 去年内裏に入りたまふべかりしを さまざま障はることありて この秋入りたまふ 九月には やがて野の宮に移ろひたまふべければ ふたたびの御祓へのいそぎ とりかさねてあるべきに ただあやしうほけほけしうて つくづくと臥し悩みたまふを 宮人 いみじき大事にて 御祈りなど さまざま仕うまつる 

 おどろおどろしきさまにはあらず そこはかとなくて 月日を過ぐしたまふ 大将殿も 常にとぶらひきこえたまへど まさる方のいたうわづらひたまへば 御心のいとまなげなり 

 まださるべきほどにもあらずと 皆人もたゆみたまへるに にはかに御けしきありて 悩みたまへば いとどしき御祈り 数を尽くしてせさせたまへれど 例の執念き御もののけ一つ さらに動かず やむごとなき験者ども めづらかなりともてなやむ さすがに いみじう調ぜられて 心苦しげに泣きわびて 
 すこしゆるべたまへや 大将に聞こゆべきことあり とのたまふ 
 さればよ あるやうあらむ 
 とて 近き御几帳のもとに入れたてまつりたり むげに限りのさまにものしたまふを 聞こえ置かまほしきこともおはするにやとて 大臣も宮もすこし退きたまへり 加持の僧ども 声しづめて法華経を誦みたる いみじう尊し 

 御几帳の帷子引き上げて見たてまつりたまへば いとをかしげにて 御腹はいみじう高うて臥したまへるさま よそ人だに 見たてまつらむに心乱れぬべし まして惜しう悲しう思す ことわりなり 白き御衣に 色あひいとはなやかにて 御髪のいと長うこちたきを 引き結ひてうち添へたるも かうてこそ らうたげになまめきたる方添ひてをかしかりけれ と見ゆ 御手をとらへて 
 あな いみじ 心憂きめを見せたまふかな 
 とて ものも聞こえたまはず泣きたまへば 例はいとわづらはしう恥づかしげなる御まみを いとたゆげに見上げて うちまもりきこえたまふに 涙のこぼるるさまを見たまふは いかがあはれの浅からむ 

 あまりいたう泣きたまへば 心苦しき親たちの御ことを思し また かく見たまふにつけて 口惜しうおぼえたまふにや と思して 
 何ごとも いとかうな思し入れそ さりともけしうはおはせじ いかなりとも かならず逢ふ瀬あなれば 対面はありなむ 大臣 宮なども 深き契りある仲は めぐりても絶えざなれば あひ見るほどありなむと思せ 
 と 慰めたまふに 
 いで あらずや 身の上のいと苦しきを しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ かく参り来むともさらに思はぬを もの思ふ人の魂は げにあくがるるものになむありける 
 と なつかしげに言ひて 

 嘆きわび空に乱るるわが魂を
 結びとどめよしたがへのつま 

 とのたまふ声 けはひ その人にもあらず 変はりたまへり いとあやし と思しめぐらすに ただ かの御息所なりけり あさましう 人のとかく言ふを よからぬ者どもの言ひ出づることも 聞きにくく思して のたまひ消つを 目に見す見す 世には かかることこそはありけれ と 疎ましうなりぬ あな 心憂 と思されて 
 かくのたまへど 誰とこそ知らね たしかにのたまへ 
 とのたまへば ただそれなる御ありさまに あさましとは世の常なり 人々近う参るも かたはらいたう思さる 

 [第五段 葵の上 男子を出産]

 すこし御声もしづまりたまへれば 隙おはするにやとて 宮の御湯持て寄せたまへるに かき起こされたまひて ほどなく生まれたまひぬ うれしと思すこと限りなきに 人に駆り移したまへる御もののけども ねたがりまどふけはひ いともの騒がしうて 後の事 またいと心もとなし 
 言ふ限りなき願ども立てさせたまふけにや たひらかに事なり果てぬれば 山の座主 何くれやむごとなき僧ども したり顔に汗おしのごひつつ 急ぎまかでぬ 

 多くの人の心を尽くしつる日ごろの名残 すこしうちやすみて 今はさりとも と思す 御修法などは またまた始め添へさせたまへど まづは 興あり めづらしき御かしづきに 皆人ゆるべり 
 院をはじめたてまつりて 親王たち 上達部 残るなき産養どもの めづらかにいかめしきを 夜ごとに見ののしる 男にてさへおはすれば そのほどの作法 にぎははしくめでたし 

 かの御息所は かかる御ありさまを聞きたまひても ただならず かねては いと危ふく聞こえしを たひらかにもはた と うち思しけり 
 あやしう 我にもあらぬ御心地を思しつづくるに 御衣なども ただ芥子の香に染み返りたるあやしさに 御ゆする参り 御衣着替へなどしたまひて 試みたまへど なほ同じやうにのみあれば わが身ながらだに疎ましう思さるるに まして 人の言ひ思はむことなど 人にのたまふべきことならねば 心ひとつに思し嘆くに いとど御心変はりもまさりゆく 

 大将殿は 心地すこしのどめたまひて あさましかりしほどの問はず語りも 心憂く思し出でられつつ いとほど経にけるも心苦しう また気近う見たてまつらむには いかにぞや うたておぼゆべきを 人の御ためいとほしう よろづに思して 御文ばかりぞありける 

 いたうわづらひたまひし人の御名残ゆゆしう 心ゆるびなげに 誰も思したれば ことわりにて 御歩きもなし なほいと悩ましげにのみしたまへば 例のさまにてもまだ対面したまはず 若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを 今から いとさまことにもてかしづききこえたまふさま おろかならず ことあひたる心地して 大臣もうれしういみじと思ひきこえたまへるに ただ この御心地おこたり果てたまはぬを 心もとなく思せど さばかりいみじかりし名残にこそは と思して いかでかは さのみは心をも惑はしたまはむ 

 若君の御まみのうつくしさなどの 春宮にいみじう似たてまつりたまへるを 見たてまつりたまひても まづ 恋しう思ひ出でられさせたまふに 忍びがたくて 参りたまはむとて 
 内裏などにもあまり久しう参りはべらねば いぶせさに 今日なむ初立ちしはべるを すこし気近きほどにて聞こえさせばや あまりおぼつかなき御心の隔てかな 
 と 恨みきこえたまへれば 
 げに ただひとへに艶にのみあるべき御仲にもあらぬを いたう衰へたまへりと言ひながら 物越にてなどあべきかは 
 とて 臥したまへる所に 御座近う参りたれば 入りてものなど聞こえたまふ 

 御いらへ 時々聞こえたまふも なほいと弱げなり されど むげに亡き人と思ひきこえし御ありさまを思し出づれば 夢の心地して ゆゆしかりしほどのことどもなど聞こえたまふついでにも かのむげに息も絶えたるやうにおはせしが 引き返し つぶつぶとのたまひしことども思し出づるに 心憂ければ 
 いさや 聞こえまほしきこといと多かれど まだいとたゆげに思しためればこそ 
 とて 御湯参れ などさへ 扱ひきこえたまふを いつならひたまひけむと 人びとあはれ がりきこゆ 

 いとをかしげなる人の いたう弱りそこなはれて あるかなきかのけしきにて臥したまへるさま いとらうたげに心苦しげなり 御髪の乱れたる筋もなく はらはらとかかれる枕のほど ありがたきまで見ゆれば 年ごろ 何ごとを飽かぬことありて思ひつらむ と あやしきまでうちまもられたまふ 

 院などに参りて いととうまかでなむ かやうにて おぼつかなからず見たてまつらば うれしかるべきを 宮のつとおはするに 心地なくやと つつみて過ぐしつるも苦しきを なほやうやう心強く思しなして 例の御座所にこそ あまり若くもてなしたまへば かたへは かくもものしたまふぞ 

 など 聞こえおきたまひて いときよげにうち装束きて出でたまふを 常よりは目とどめて 見出だして臥したまへり 

 [第六段 秋の司召の夜 葵の上死去する]

 秋の司召あるべき定めにて 大殿も参りたまへば 君達も労はり望みたまふことどもありて 殿の御あたり離れたまはねば 皆ひき続き出でたまひぬ 

 殿の内 人少なにしめやかなるほどに にはかに例の御胸をせきあげて いといたう惑ひたまふ 内裏に御消息聞こえたまふほどもなく 絶え入りたまひぬ 足を空にて 誰も誰も まかでたまひぬれば 除目の夜なりけれど かくわりなき御障りなれば みな事破れたるやうなり 
 ののしり騒ぐほど 夜中ばかりなれば 山の座主 何くれの僧都たちも え請じあへたまはず 今はさりとも と思ひたゆみたりつるに あさましければ 殿の内の人 ものにぞあたる 所々の御とぶらひの使など 立ちこみたれど え聞こえつかず ゆすりみちて いみじき御心惑ひども いと恐ろしきまで見えたまふ 

 御もののけのたびたび取り入れたてまつりしを思して 御枕などもさながら 二 三日見たてまつりたまへど やうやう変はりたまふことどものあれば 限り と思し果つるほど 誰も誰もいといみじ 
 大将殿は 悲しきことに ことを添へて 世の中をいと憂きものに思し染みぬれば ただならぬ御あたりの弔ひどもも 心憂しとのみぞ なべて思さるる 院に 思し嘆き 弔ひきこえさせたまふさま かへりて面立たしげなるを うれしき瀬もまじりて 大臣は御涙のいとまなし 
 人の申すに従ひて いかめしきことどもを 生きや返りたまふと さまざまに残ることなく かつ損なはれたまふことどものあるを見る見るも 尽きせず思し惑へど かひなくて日ごろになれば いかがはせむとて 鳥辺野に率てたてまつるほど いみじげなること 多かり 

 [第七段 葵の上の葬送とその後]

 こなたかなたの御送りの人ども 寺々の念仏僧など そこら広き野に所もなし 院をばさらにも申さず 后の宮 春宮などの御使 さらぬ所々のも参りちがひて 飽かずいみじき御とぶらひを聞こえたまふ 大臣はえ立ち上がりたまはず 
 かかる齢の末に 若く盛りの子に後れたてまつりて もごよふこと 
 と恥ぢ泣きたまふを ここらの人悲しう見たてまつる 

 夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど いともはかなき御屍ばかりを御名残にて 暁深く帰りたまふ 
 常のことなれど 人一人か あまたしも見たまはぬことなればにや 類ひなく思し焦がれたり 八月二十余日の有明なれば 空もけしきもあはれ少なからぬに 大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも ことわりにいみじければ 空のみ眺められたまひて 

 のぼりぬる煙はそれとわかねども
 なべて雲居のあはれなるかな 

 殿におはし着きて つゆまどろまれたまはず 年ごろの御ありさまを思し出でつつ 
 などて つひにはおのづから見直したまひてむと のどかに思ひて なほざりのすさびにつけても つらしとおぼえられたてまつりけむ 世を経て 疎く恥づかしきものに思ひて過ぎ果てたまひぬる 
 など 悔しきこと多く 思しつづけらるれど かひなし にばめる御衣たてまつれるも 夢の心地して われ先立たましかば 深くぞ染めたまはまし と 思すさへ 

 限りあれば薄墨衣浅けれど
 涙ぞ袖を淵となしける 

 とて 念誦したまへるさま いとどなまめかしさまさりて 経忍びやかに誦みたまひつつ 法界三昧普賢大士 とうちのたまへる 行ひ馴れたる法師よりはけなり 若君を見たてまつりたまふにも 何に忍ぶの と いとど露けけれど かかる形見さへなからましかば と 思し慰む 
 宮はしづみ入りて そのままに起き上がりたまはず 危ふげに見えたまふを また思し騒ぎて 御祈りなどせさせたまふ 

 はかなう過ぎゆけば 御わざのいそぎなどせさせたまふも 思しかけざりしことなれば 尽きせずいみじうなむ なのめにかたほなるをだに 人の親はいかが思ふめる ましてことわりなり また 類ひおはせぬをだに さうざうしく思しつるに 袖の上の玉の砕けたりけむよりも あさましげなり 

 大将の君は 二条院にだに あからさまにも渡りたまはず あはれに心深う思ひ嘆きて 行ひをまめにしたまひつつ 明かし暮らしたまふ 所々には 御文ばかりぞたてまつりたまふ 

 かの御息所は 斎宮は左衛門の司に入りたまひにければ いとどいつくしき御きよまはりにことつけて 聞こえも通ひたまはず 憂しと思ひ染みにし世も なべて厭はしうなりたまひて かかるほだしだに添はざらましかば 願はしきさまにもなりなまし と思すには まづ対の姫君の さうざうしくてものしたまふらむありさまぞ ふと思しやらるる 

 夜は 御帳の内に一人臥したまふに 宿直の人びとは近うめぐりてさぶらへど かたはら寂しくて 時しもあれ と寝覚めがちなるに 声すぐれたる限り選りさぶらはせたまふ念仏の 暁方など 忍びがたし 

 深き秋のあはれまさりゆく風の音 身にしみけるかな と ならはぬ御独寝に明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに 菊のけしきばめる枝に 濃き青鈍の紙なる文つけて さし置きて往にけり 今めかしうも とて 見たまへば 御息所の御手なり 

 聞こえぬほどは 思し知るらむや 
 人の世をあはれと聞くも露けきに
 後るる袖を思ひこそやれ
 ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ 

 とあり 常よりも優にも書いたまへるかな と さすがに置きがたう見たまふものから つれなの御弔ひや と心憂し さりとて かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく 人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る 
 過ぎにし人は とてもかくても さるべきにこそはものしたまひけめ 何にさることを さださだとけざやかに見聞きけむ と悔しきは わが御心ながら なほえ思し直すまじきなめりかし 
 斎宮の御きよまはりもわづらはしくや など 久しう思ひわづらひたまへど わざとある御返りなくは 情けなくや とて 紫のにばめる紙に 

 こよなうほど経はべりにけるを 思ひたまへおこたらずながら つつましきほどは さらば 思し知るらむやとてなむ 
 とまる身も消えしもおなじ露の世に
 心置くらむほどぞはかなき
 かつは思し消ちてよかし 御覧ぜずもやとて 誰れにも 

 と聞こえたまへり 

 里におはするほどなりければ 忍びて見たまひて ほのめかしたまへるけしきを 心の鬼にしるく見たまひて さればよ と思すも いといみじ 

 なほ いと限りなき身の憂さなりけり かやうなる聞こえありて 院にもいかに思さむ 故前坊の 同じき御はらからと言ふなかにも いみじう思ひ交はしきこえさせたまひて この斎宮の御ことをも ねむごろに聞こえつけさせたまひしかば 『その御代はりにも やがて見たてまつり扱はむ』など 常にのたまはせて 『やがて内裏住みしたまへ』と たびたび聞こえさせたまひしをだに いとあるまじきこと と思ひ離れにしを かく心よりほかに若々しきもの思ひをして つひに憂き名をさへ流し果てつべきこと 

 と 思し乱るるに なほ例のさまにもおはせず 

 さるは おほかたの世につけて 心にくくよしある聞こえありて 昔より名高くものしたまへば 野の宮の御移ろひのほどにも をかしう今めきたること多くしなして 殿上人どもの好ましきなどは 朝夕の露分けありくを そのころの役になむする など聞きたまひても 大将の君は ことわりぞかし ゆゑは飽くまでつきたまへるものを もし 世の中に飽き果てて下りたまひなば さうざうしくもあるべきかな と さすがに思されけり 

 [第八段 三位中将と故人を追慕する]

 御法事など過ぎぬれど 正日までは なほ籠もりおはす ならはぬ御つれづれを 心苦しがりたまひて 三位中将は常に参りたまひつつ 世の中の御物語など まめやかなるも また例の乱りがはしきことをも聞こえ出でつつ 慰めきこえたまふに かの内侍ぞ うち笑ひたまふくさはひにはなるめる 大将の君は 
 あな いとほしや 祖母殿の上 ないたう軽めたまひそ 
 といさめたまふものから 常にをかしと思したり 

 かの十六夜の さやかならざりし秋のことなど さらぬも さまざまの好色事どもを かたみに隈なく言ひあらはしたまふ 果て果ては あはれなる世を言ひ言ひて うち泣きなどもしたまひけり 

 時雨うちして ものあはれなる暮つ方 中将の君 鈍色の直衣 指貫 うすらかに衣更へして いと雄々しうあざやかに 心恥づかしきさまして参りたまへり 
 君は 西のつまの高欄におしかかりて 霜枯れの前栽見たまふほどなりけり 風荒らかに吹き 時雨さとしたるほど 涙もあらそふ心地して 
 雨となり雲とやなりにけむ 今は知らず 
 と うちひとりごちて 頬杖つきたまへる御さま 女にては 見捨てて亡くならむ魂かならずとまりなむかし と 色めかしき心地に うちまもられつつ 近うついゐたまへれば しどけなくうち乱れたまへるさまながら 紐ばかりをさし直したまふ 
 これは 今すこしこまやかなる夏の御直衣に 紅のつややかなるひき重ねて やつれたまへるしも 見ても飽かぬ心地ぞする 
 中将も いとあはれなるまみに眺めたまへり 

 雨となりしぐるる空の浮雲を
 いづれの方とわきて眺めむ
 行方なしや 

 と 独り言のやうなるを 

 見し人の雨となりにし雲居さへ
 いとど時雨にかき暮らすころ 

 とのたまふ御けしきも 浅からぬほどしるく見ゆれば 

 あやしう 年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを 院など 居立ちてのたまはせ 大臣の御もてなしも心苦しう 大宮の御方ざまに もて離るまじきなど かたがたにさしあひたれば えしもふり捨てたまはで もの憂げなる御けしきながら あり経たまふなめりかしと いとほしう見ゆる折々ありつるを まことに やむごとなく重きかたは ことに思ひきこえたまひけるなめり 

 と見知るに いよいよ口惜しうおぼゆ よろづにつけて光失せぬる心地して 屈じいたかりけり 

 枯れたる下草のなかに 龍胆 撫子などの 咲き出でたるを折らせたまひて 中将の立ちたまひぬる後に 若君の御乳母の宰相の君して 

 草枯れのまがきに残る撫子を
 別れし秋のかたみとぞ見る
 にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ 

 と聞こえたまへり げに何心なき御笑み顔ぞ いみじううつくしき 宮は 吹く風につけてだに 木の葉よりけにもろき御涙は まして とりあへたまはず 

 今も見てなかなか袖を朽たすかな
 垣ほ荒れにし大和撫子 

 なほ いみじうつれづれなれば 朝顔の宮に 今日のあはれは さりとも見知りたまふらむ と推し量らるる御心ばへなれば 暗きほどなれど 聞こえたまふ 絶え間遠けれど さのものとなりにたる御文なれば 咎なくて御覧ぜさす 空の色したる唐の紙に 

 わきてこの暮こそ袖は露けけれ
 もの思ふ秋はあまた経ぬれど
 いつも時雨は 

 とあり 御手などの心とどめて書きたまへる 常よりも見どころありて 過ぐしがたきほどなり と人も聞こえ みづからも思されければ 
 大内山を 思ひやりきこえながら えやは とて 

 秋霧に立ちおくれぬと聞きしより
 しぐるる空もいかがとぞ思ふ 

 とのみ ほのかなる墨つきにて 思ひなし心にくし 
 何ごとにつけても 見まさりはかたき世なめるを つらき人しもこそと あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる 

 つれなながら さるべき折々のあはれを過ぐしたまはぬ これこそ かたみに情けも見果つべきわざなれ なほ ゆゑづきよしづきて 人目に見ゆばかりなるは あまりの難も出で来けり 対の姫君を さは生ほし立てじ と思す つれづれにて恋しと思ふらむかし と 忘るる折なけれど ただ女親なき子を 置きたらむ心地して 見ぬほど うしろめたく いかが思ふらむ とおぼえぬぞ 心やすきわざなりける 

 暮れ果てぬれば 御殿油近く参らせたまひて さるべき限りの人びと 御前にて物語などせさせたまふ 
 中納言の君といふは 年ごろ忍び思ししかど この御思ひのほどは なかなかさやうなる筋にもかけたまはず あはれなる御心かな と見たてまつる おほかたにはなつかしううち語らひたまひて 

 かう この日ごろ ありしよりけに 誰も誰も紛るるかたなく 見なれ見なれて えしも常にかからずは 恋しからじや いみじきことをばさるものにて ただうち思ひめぐらすこそ 耐へがたきこと多かりけれ 

 とのたまへば いとどみな泣きて 

 いふかひなき御ことは ただかきくらす心地しはべるは さるものにて 名残なきさまにあくがれ果てさせたまはむほど 思ひたまふるこそ 

 と 聞こえもやらず あはれと見わたしたまひて 

 名残なくは いかがは 心浅くも取りなしたまふかな 心長き人だにあらば 見果てたまひなむものを 命こそはかなけれ 

 とて 灯をうち眺めたまへるまみの うち濡れたまへるほどぞ めでたき 
 とりわきてらうたくしたまひし小さき童の 親どももなく いと心細げに思へる ことわりに見たまひて 
 あてきは 今は我をこそは思ふべき人なめれ 
 とのたまへば いみじう泣く ほどなき衵 人よりは黒う染めて 黒き汗衫 萱草の袴など着たるも をかしき姿なり 

 昔を忘れざらむ人は つれづれを忍びても 幼なき人を見捨てず ものしたまへ 見し世の名残なく 人びとさへ離れなば たづきなさもまさりぬべくなむ 
 など みな心長かるべきことどもをのたまへど いでや いとど待遠にぞなりたまはむ と思ふに いとど心細し 

 大殿は 人びとに 際々ほど置きつつ はかなきもてあそびものども また まことにかの御形見なるべきものなど わざとならぬさまに取りなしつつ 皆配らせたまひけり 

 [第九段 源氏 左大臣邸を辞去する]

 君は かくてのみも いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて 院へ参りたまふ 御車さし出でて 御前など参り集るほど 折知り顔なる時雨うちそそきて 木の葉さそふ風 あわたたしう吹き払ひたるに 御前にさぶらふ人びと ものいと心細くて すこし隙ありつる袖ども湿ひわたりぬ 
 夜さりは やがて二条院に泊りたまふべしとて 侍ひの人びとも かしこにて待ちきこえむとなるべし おのおの立ち出づるに 今日にしもとぢむまじきことなれど またなくもの悲し 

 大臣も宮も 今日のけしきに また悲しさ改めて思さる 宮の御前に御消息聞こえたまへり 
 院におぼつかながりのたまはするにより 今日なむ参りはべる あからさまに立ち出ではべるにつけても 今日までながらへはべりにけるよと 乱り心地のみ動きてなむ 聞こえさせむもなかなかにはべるべければ そなたにも参りはべらぬ 
 とあれば いとどしく宮は 目も見えたまはず 沈み入りて 御返りも聞こえたまはず 

 大臣ぞ やがて渡りたまへる いと堪へがたげに思して 御袖も引き放ちたまはず 見たてまつる人びともいと悲し 
 大将の君は 世を思しつづくること いとさまざまにて 泣きたまふさま あはれに心深きものから いとさまよくなまめきたまへり 大臣 久しうためらひたまひて 

 齢のつもりには さしもあるまじきことにつけてだに 涙もろなるわざにはべるを まして 干る世なう思ひたまへ惑はれはべる心を えのどめはべらねば 人目も いと乱りがはしう 心弱きさまにはべるべければ 院などにも参りはべらぬなり ことのついでには さやうにおもむけ奏せさせたまへ いくばくもはべるまじき老いの末に うち捨てられたるが つらうもはべるかな 

 と せめて思ひ静めてのたまふけしき いとわりなし 君も たびたび鼻うちかみて 
 後れ先立つほどの定めなさは 世のさがと見たまへ知りながら さしあたりておぼえはべる心惑ひは 類ひあるまじきわざとなむ 院にも ありさま奏しはべらむに 推し量らせたまひてむ と聞こえたまふ 
 さらば 時雨も隙なくはべるめるを 暮れぬほどに と そそのかしきこえたまふ 

 うち見まはしたまふに 御几帳の後 障子のあなたなどのあき通りたるなどに 女房三十人ばかりおしこりて 濃き 薄き鈍色どもを着つつ 皆いみじう心細げにて うちしほたれつつゐ集りたるを いとあはれ と見たまふ 

 思し捨つまじき人もとまりたまへれば さりとも もののついでには立ち寄らせたまはじやなど 慰めはべるを ひとへに思ひやりなき女房などは 今日を限りに 思し捨てつる故里と思ひ屈じて 長く別れぬる悲しびよりも ただ時々馴れ仕うまつる年月の名残なかるべきを 嘆きはべるめるなむ ことわりなる うちとけおはしますことははべらざりつれど さりともつひにはと あいな頼めしはべりつるを げにこそ 心細き夕べにはべれ 

 とても 泣きたまひぬ 

 いと浅はかなる人びとの嘆きにもはべるなるかな まことに いかなりともと のどかに思ひたまへつるほどは おのづから御目離るる折もはべりつらむを なかなか今は 何を頼みにてかはおこたりはべらむ 今御覧じてむ 

 とて出でたまふを 大臣見送りきこえたまひて 入りたまへるに 御しつらひよりはじめ ありしに変はることもなけれど 空蝉のむなしき心地ぞしたまふ 
 御帳の前に 御硯などうち散らして 手習ひ捨てたまへるを取りて 目をおししぼりつつ見たまふを 若き人びとは 悲しきなかにも ほほ笑むあるべし あはれなる古言ども 唐のも大和のも書きけがしつつ 草にも真名にも さまざまめづらしきさまに書き混ぜたまへり 
 かしこの御手や 
 と 空を仰ぎて眺めたまふ よそ人に見たてまつりなさむが 惜しきなるべし 旧き枕故き衾 誰と共にか とある所に 

 なき魂ぞいとど悲しき寝し床の
 あくがれがたき心ならひに 

 また 霜の花白し とある所に 

 君なくて塵つもりぬる常夏の
 露うち払ひいく夜寝ぬらむ 

 一日の花なるべし 枯れて混じれり 

 宮に御覧ぜさせたまひて 
 いふかひなきことをばさるものにて かかる悲しき類ひ 世になくやはと 思ひなしつつ 契り長からで かく心を惑はすべくてこそはありけめと かへりてはつらく 前の世を思ひやりつつなむ 覚ましはべるを ただ 日ごろに添へて 恋しさの堪へがたきと この大将の君の 今はとよそになりたまはむなむ 飽かずいみじく思ひたまへらるる 一日 二日も見えたまはず かれがれにおはせしをだに 飽かず胸いたく思ひはべりしを 朝夕の光失ひては いかでかながらふべからむ 

 と 御声もえ忍びあへたまはず泣いたまふに 御前なるおとなおとなしき人など いと悲しくて さとうち泣きたる そぞろ寒き夕べのけしきなり 

 若き人びとは 所々に群れゐつつ おのがどち あはれなることどもうち語らひて 
 殿の思しのたまはするやうに 若君を見たてまつりてこそは 慰むべかめれと思ふも いとはかなきほどの御形見にこそ 
 とて おのおの あからさまにまかでて 参らむ と言ふもあれば かたみに別れ惜しむほど おのがじしあはれなることども多かり 

 院へ参りたまへれば 
 いといたう面痩せにけり 精進にて日を経るけにや 
 と 心苦しげに思し召して 御前にて物など参らせたまひて とやかくやと思し扱ひきこえさせたまへるさま あはれにかたじけなし 

 中宮の御方に参りたまへれば 人びと めづらしがり見たてまつる 命婦の君して 
 思ひ尽きせぬことどもを ほど経るにつけてもいかに 
 と 御消息聞こえたまへり 
 常なき世は おほかたにも思うたまへ知りにしを 目に近く見はべりつるに 厭はしきこと多く思うたまへ乱れしも たびたびの御消息に慰めはべりてなむ 今日までも 
 とて さらぬ折だにある御けしき取り添へて いと心苦しげなり 無紋の表の御衣に 鈍色の御下襲 纓巻きたまへるやつれ姿 はなやかなる御装ひよりも なまめかしさまさりたまへり 

 春宮にも久しう参らぬおぼつかなさなど 聞こえたまひて 夜更けてぞ まかでたまふ 

 

第三章 紫の君の物語 新手枕の物語
 [第一段 源氏 紫の君と新手枕を交わす]

 二条院には 方々払ひみがきて 男女 待ちきこえたり 上臈ども皆参う上りて 我も我もと装束き 化粧じたるを見るにつけても かのゐ並み屈じたりつるけしきどもぞ あはれに思ひ出でられたまふ 
 御装束たてまつり替へて 西の対に渡りたまへり 衣更への御しつらひ くもりなくあざやかに見えて よき若人童女の 形 姿めやすくととのへて 少納言がもてなし 心もとなきところなう 心にくし と見たまふ 

 姫君 いとうつくしうひきつくろひておはす 
 久しかりつるほどに いとこよなうこそ大人びたまひにけれ 
 とて 小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば うちそばみて笑ひたまへる御さま 飽かぬところなし 
 火影の御かたはらめ 頭つきなど ただ かの心尽くしきこゆる人に 違ふところなくなりゆくかな 
 と見たまふに いとうれし 

 近く寄りたまひて おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて 
 日ごろの物語 のどかに聞こえまほしけれど 忌ま忌ましうおぼえはべれば しばし他方にやすらひて 参り来む 今は とだえなく見たてまつるべければ 厭はしうさへや思されむ 
 と 語らひきこえたまふを 少納言はうれしと聞くものから なほ危ふく思ひきこゆ やむごとなき忍び所多うかかづらひたまへれば またわづらはしきや立ち代はりたまはむ と思ふぞ 憎き心なるや 

 御方に渡りたまひて 中将の君といふ 御足など参りすさびて 大殿籠もりぬ 
 朝には 若君の御もとに御文たてまつりたまふ あはれなる御返りを見たまふにも 尽きせぬことどものみなむ 

 いとつれづれに眺めがちなれど 何となき御歩きも もの憂く思しなられて 思しも立たれず 
 姫君の 何ごともあらまほしうととのひ果てて いとめでたうのみ見えたまふを 似げなからぬほどに はた 見なしたまへれば けしきばみたることなど 折々聞こえ試みたまへど 見も知りたまはぬけしきなり 

 つれづれなるままに ただこなたにて碁打ち 偏つぎなどしつつ 日を暮らしたまふに 心ばへのらうらうじく愛敬づき はかなき戯れごとのなかにも うつくしき筋をし出でたまへば 思し放ちたる年月こそ たださるかたのらうたさのみはありつれ しのびがたくなりて 心苦しけれど いかがありけむ 人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに 男君はとく起きたまひて 女君はさらに起きたまはぬ朝あり 

 人びと いかなれば かくおはしますならむ 御心地の例ならず思さるるにや と見たてまつり嘆くに 君は渡りたまふとて 御硯の箱を 御帳のうちにさし入れておはしにけり 
 人まにからうして頭もたげたまへるに 引き結びたる文 御枕のもとにあり 何心もなく ひき開けて見たまへば 

 あやなくも隔てけるかな夜をかさね
 さすがに馴れし夜の衣を 

 と 書きすさびたまへるやうなり かかる御心おはすらむ とは かけても思し寄らざりしかば 
 などてかう心憂かりける御心を うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ 
 と あさましう思さる 

 昼つかた 渡りたまひて 
 悩ましげにしたまふらむは いかなる御心地ぞ 今日は 碁も打たで さうざうしや 
 とて 覗きたまへば いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり 人びとは退きつつさぶらへば 寄りたまひて 
 など かくいぶせき御もてなしぞ 思ひのほかに心憂くこそおはしけれな 人もいかにあやしと思ふらむ 
 とて 御衾をひきやりたまへれば 汗におしひたして 額髪もいたう濡れたまへり 
 あな うたて これはいとゆゆしきわざぞよ 
 とて よろづにこしらへきこえたまへど まことに いとつらしと思ひたまひて つゆの御いらへもしたまはず 
 よしよし さらに見えたてまつらじ いと恥づかし 
 など怨じたまひて 御硯開けて見たまへど 物もなければ 若の御ありさまや と らうたく見たてまつりたまひて 日一日 入りゐて 慰めきこえたまへど 解けがたき御けしき いとどらうたげなり 

 [第二段 結婚の儀式の夜]

 その夜さり 亥の子餅参らせたり かかる御思ひのほどなれば ことことしきさまにはあらで こなたばかりに をかしげなる桧破籠などばかりを 色々にて参れるを見たまひて 君 南のかたに出でたまひて 惟光を召して 
 この餅 かう数々に所狭きさまにはあらで 明日の暮れに参らせよ 今日は忌ま忌ましき日なりけり 
 と うちほほ笑みてのたまふ御けしきを 心とき者にて ふと思ひ寄りぬ 惟光 たしかにも承らで 
 げに 愛敬の初めは 日選りして聞こし召すべきことにこそ さても 子の子はいくつか仕うまつらすべうはべらむ 
 と まめだちて申せば 
 三つが一つかにてもあらむかし 
 とのたまふに 心得果てて 立ちぬ もの馴れのさまや と君は思す 人にも言はで 手づからといふばかり 里にてぞ 作りゐたりける 

 君は こしらへわびたまひて 今はじめ盗みもて来たらむ人の心地するも いとをかしくて 年ごろあはれと思ひきこえつるは 片端にもあらざりけり 人の心こそうたてあるものはあれ 今は一夜も隔てむことのわりなかるべきこと と思さる 

 のたまひし餅 忍びて いたう夜更かして持て参れり 少納言はおとなしくて 恥づかしくや思さむ と 思ひやり深く心しらひて 娘の弁といふを呼び出でて 
 これ 忍びて参らせたまへ 
 とて 香壺の筥を一つ さし入れたり 
 たしかに 御枕上に参らすべき祝ひの物にはべる あな かしこ あだにな 
 と言へば あやし と思へど 
 あだなることは まだならはぬものを 
 とて 取れば 
 まことに 今はさる文字忌ませたまへよ よも混じりはべらじ 
 と言ふ 若き人にて けしきもえ深く思ひ寄らねば 持て参りて 御枕上の御几帳よりさし入れたるを 君ぞ 例の聞こえ知らせたまふらむかし 

 人はえ知らぬに 翌朝 この筥をまかでさせたまへるにぞ 親しき限りの人びと 思ひ合はすることどもありける 御皿どもなど いつのまにかし出でけむ 花足いときよらにして 餅のさまも ことさらび いとをかしう調へたり 

 少納言は いと かうしもや とこそ思ひきこえさせつれ あはれにかたじけなく 思しいたらぬことなき御心ばへを まづうち泣かれぬ 
 さても うちうちにのたまはせよな かの人も いかに思ひつらむ 
 と ささめきあへり 

 かくて後は 内裏にも院にも あからさまに参りたまへるほどだに 静心なく 面影に恋しければ あやしの心や と 我ながら思さる 通ひたまひし所々よりは うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば いとほしと思すもあれど 新手枕の心苦しくて 夜をや隔てむ と 思しわづらはるれば いともの憂くて 悩ましげにのみもてなしたまひて 
 世の中のいと憂くおぼゆるほど過ぐしてなむ 人にも見えたてまつるべき 
 とのみいらへたまひつつ 過ぐしたまふ 

 今后は 御匣殿なほこの大将にのみ心つけたまへるを 
 げにはた かくやむごとなかりつる方も失せたまひぬめるを さてもあらむに などか口惜しからむ 
 など 大臣のたまふに いと憎し と 思ひきこえたまひて 
 宮仕へも をさをさしくだにしなしたまへらば などか悪しからむ 
 と 参らせたてまつらむことを思しはげむ 

 君も おしなべてのさまにはおぼえざりしを 口惜しとは思せど ただ今はことざまに分くる御心もなくて 
 何かは かばかり短かめる世に かくて思ひ定まりなむ 人の怨みも負ふまじかりけり 
 と いとど危ふく思し懲りにたり 

 かの御息所は いといとほしけれど まことのよるべと頼みきこえむには かならず心おかれぬべし 年ごろのやうにて見過ぐしたまはば さるべき折ふしにもの聞こえあはする人にてはあらむ など さすがに ことのほかには思し放たず 

 この姫君を 今まで世人もその人とも知りきこえぬも 物げなきやうなり 父宮に知らせきこえてむ と 思ほしなりて 御裳着のこと 人にあまねくはのたまはねど なべてならぬさまに思しまうくる御用意など いとありがたけれど 女君は こよなう疎みきこえたまひて 年ごろよろづに頼みきこえて まつはしきこえけるこそ あさましき心なりけれ と 悔しうのみ思して さやかにも見合はせたてまつりたまはず 聞こえ戯れたまふも 苦しうわりなきものに思しむすぼほれて ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを をかしうもいとほしうも思されて 
 年ごろ 思ひきこえし本意なく 馴れはまさらぬ御けしきの 心憂きこと と 怨みきこえたまふほどに 年も返りぬ 

 [第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り]

 朔日の日は 例の 院に参りたまひてぞ 内裏 春宮などにも参りたまふ それより大殿にまかでたまへり 大臣 新しき年ともいはず 昔の御ことども聞こえ出でたまひて さうざうしく悲しと思すに いとどかくさへ渡りたまへるにつけて 念じ返したまへど 堪へがたう思したり 
 御年の加はるけにや ものものしきけさへ添ひたまひて ありしよりけに きよらに見えたまふ 立ち出でて 御方に入りたまへれば 人びともめづらしう見たてまつりて 忍びあへず 

 若君見たてまつりたまへば こよなうおよすけて 笑ひがちにおはするも あはれなり まみ 口つき ただ春宮の御同じさまなれば 人もこそ見たてまつりとがむれ と見たまふ 

 御しつらひなども変はらず 御衣掛の御装束など 例のやうにし掛けられたるに 女のが並ばぬこそ 栄なくさうざうしく栄なけれ 
 宮の御消息にて 
 今日は いみじく思ひたまへ忍ぶるを かく渡らせたまへるになむ なかなか 
 など聞こえたまひて 
 昔にならひはべりにける御よそひも 月ごろは いとど涙に霧りふたがりて 色あひなく御覧ぜられはべらむと思ひたまふれど 今日ばかりは なほやつれさせたまへ 
 とて いみじくし尽くしたまへるものども また重ねてたてまつれたまへり かならず今日たてまつるべき と思しける御下襲は 色も織りざまも 世の常ならず 心ことなるを かひなくやはとて 着替へたまふ 来ざらましかば 口惜しう思さましと 心苦し 御返りに 
 春や来ぬるとも まづ御覧ぜられになむ 参りはべりつれど 思ひたまへ出でらるること多くて え聞こえさせはべらず 

 あまた年今日改めし色衣
 着ては涙ぞふる心地する

 えこそ思ひたまへしづめね 
 と聞こえたまへり 御返り 

 新しき年ともいはずふるものは
 ふりぬる人の涙なりけり 

 おろかなるべきことにぞあらぬや 

2020-02-29

Posted by 管理者